2006年11月19日

 

博士の愛した数式」(2005/日本 監督:小泉堯史)


 この物語では時間はゆっくりと、そして静かに優しく過ぎていく。記憶が80分しかもたないある過去を持つ数学者と10歳の子供をもつシングルマザー母子との日々のふれあいが機微豊かに描かれていた。
 この作品を情緒あふれる作品に仕上げているキーワードに数式がある。数式という言葉からは、無機質で冷たいもの、そしてあいまいさを許さない、徹頭徹尾、論理により構築される非人間的なものを僕は想起する。しかし、この作者は大方の人が想起するであろうこの発想を逆手にとり、みごとに数式という非情緒的なイメージと人間同士のふれあいを融合させた。白(論理)と黒(情緒)が対極にあるからこそ、白と黒が少しずつ、そして濃密に融合していくさまの不思議さを感じ、僕はいつのまにかこの作品に深く入っていったのだと思う。根底にこの考えかたを置いての作品であるとすれば、この作者の意図にまんまと僕ははまったことになる。
 この作品にはいくつもの数式が出てくる。もちろん単なる数式で終わることなく、数式そのものと数式を説明、解釈する主人公の全人格とが見事に調和していく構成には、完全に脱帽だ。無機質な数式や数を人との関係に置き換え絆にしてしまう解釈をきいていたら、言葉のもつ力や発想の無限さに改めて感じ入ってしまった。

 ここからは、「博士の愛した数式」公式ホームページから作品に登場した豊かな発想につながる数や数式について引用する。

・子供に√(ルート)というニックネームをつけたとき、博士はこういった。
「どんな数字でも嫌がらずにかくまってやる、実に寛大な記号、ルートだよ」

・素数について博士はこう説明した。
「素数の素は素直な素、何も加えない、本来の自分という意味。つまり1と自分自身以外では割り切れない数字のこと。2,3,5,7,11・・・。この素数は夜空に光る星のように無限に存在します」

・完全な人間がいないということを博士はこう説明した。
「28の約数を足すと28になる・・・・。完全数だ。デカルトは、完全な人間がめったにいないように、完全な数もまた稀だといっている。この数千年に見つかった完全数の数は30個にも満たないんだよ。完全数、28は阪神タイガースのエース、江夏豊の背番号なんだ」


<完全数とは、その数自身を除く約数の和が、その数自身と等しい自然数のこと。
6 = 1+2+3 28=1+2+4+7+14 など。
完全数が無限に存在するかどうかということは分かっていない。古代の人は、最初の完全数が6なのは「神が6日間で世界をつくったから」、次の完全数が28なのは「月の公転周期が28日」と関連があると考えていたとされる(Wikipediaより)>


ちなみに、28という数字は次の式でも成り立つ。28=1+2+3+4+5+6+7

・シングルマザーの誕生日と博士の時計の裏に刻まれていた数字について、博士はこういった。
「見てご覧、この素晴らしい一続きの数字の連なりを。284の約数の和は220。220の約数の和は284。友愛数だ。神の計らいを受けた、絆で結ばれた数字なんだ。美しいと思わないかい。君の誕生日と僕の僕の手首に刻まれた文字がこれほど見事なチェーンでつながり合っているなんて」


<友愛数とは、異なる2つの自然数の自分自身を除いた約数の和が、互いに他方と等しくなるような数をいう。一番小さな友愛数の組は(220, 284)である。
220の自分自身を除いた約数は、1,2,4,5,10,11,20,22,44,55,110で、和は284となる。
一方、284の自分自身を除いた約数は、1,2,4,71,142で、和は220である(Wikipediaより)>

 

 数式と情緒がこんなふうにしっくりと溶け合うなんてまったく以外であり、発想の素晴らしさ、そして無限さをつくづく感じた作品でした。