1999年記

 

タイ・バンコク Dee mar

 

 1998年10月、6年の赴任期間を終え、後ろ髪を引かれる思いでタイ・バンコクから日本に帰国した。バンコクでの楽しかった思い出が今もなお去来して止まない。6年という歳月をかけ、いろいろな意味で僕はかけがえのない財産を得ることができた。そんなかつての6年間を回想しながら僕自身の感じ体験したタイを綴る。

 ポケットから取り出してチャラチャラ、差し込んでカチッ。そしてキックの後アクセルをふかしてブルルルン。一発でエンジンはかかった。
こいつは幸先がいいぞー   
 その日も僕は、愛車、SUZUKI CRYSTAL110CC・ロータリー式のバイクで、勤務先の百貨店があるラチャダピセック地区に向かった(在タイ中の最終走行距離は23,228キロだった)。会社までの距離はわずか7キロ。わずか15分足らずの快適通勤だ。ただし、暑さとの戦いは覚悟しなくてはならない。信号は、ピタッとした制服を身につけたおまわりさんが、手動で操作するのが一般的だ。そのお陰で青・黄・赤と信号が変わる時間の間隔は一定でない。
 その日も、車の長い列ができていた。みんな信号が変わるのをまんじりともせず気長にマイペンライで待っている。もちろん僕もマイペンライだ。止まっている車と車の間が90センチもあれば、十分その間を縫うようにして前進でき、交差点の先頭に出られるからだ。
 もちろん、いち早く先頭に出るにはコツがある。
 できるだけ前方に向かって右側、つまり対向車線側をひたすら直進しジグザグ運転はしないことだ。これがわかればロスタイムは必ず減る。安全性に多少の問題は残るが、自分でこのような運転をしたとしても、バイクタクシーに乗るよりは数倍安全だ。
 だが、それでも問題は残る。
 おまわりさんが切り替えの時間を長くしてしまえば、先頭にいてもやはり待たなくてはならない。とどのつまりは、ジグザグ運転をしようが直進しようが速く先頭にたどり着いたところで、結局は待たされる、と言うのが落ちだった。これがバンコクの交通事情なのだ。
 ところが幸運にも、その日は信号が変わるのが速く、先頭に位置していたことが無駄にならず12分で会社に到着した。駐輪場では、多くのスタッフたちがだべっている。僕はさっそく12分の快挙をスタッフに自慢した。だが誰もが言う。
「どうしてそんなに速く走るんですか、危ないじゃないですか」
 この答えは実に意外だった。
 深夜でも暴走族のように、爆音を起てて走り去る無謀なバイクライダーが多いことも事実だからだ。釈然としなかったが、結局運転は"人による"と言うことなのか?
 当時、僕が釈然としなかったそれなりの理由が他にもあった。それはタイ人のドライブマナーから来ていた。
 ウインカーを出さない・どう見ても前後左右を確認していない・強気の割りこみをする・クラクションをやたらに鳴らす等の場面を数多く見てきたからだ。故に、タイ人はスピードを出すことが好きなんだろう、に結びついてしまったのだ。
 実際、スタッフ三人とバイクで一緒に走ったことがあったが、一番速かったのは僕だった。彼らの言葉にウソはなかったのだ。短絡的発想にはくれぐれも気をつけなくては。
 スタッフとの井戸端会議も終わり、それぞれが持ち場に就いた。
 僕は当初3・4階の2フロアを担当していた。広さにすれば8000へーベーだ。ひとりが担当する面積で言えば、日本の百貨店では絶対に考えられない広さだ。建物は6フロアから成り立ち、総面積は20000へーベー。僕の担当した2フロアの従業員数は、取引先からの応援社員も含めれば200人はいただろう。
 朝礼はタイ語だ。400の目玉が僕を凝視し、400の耳が聞き耳を立てている。最初は教科書持参の手に汗握る朝礼の連続だったが、日を追うごとに教科書は不必要となっていった。それは、みんなが僕の正しくない発音に慣れてきたからに他ならない。徐々に言葉を媒介にし、思うようなコミュニケーションが図れるようになっていく。俄然この辺りから、タイでの生活が楽しくなっていったのは言うまでもない。


 今でも忘れられないことがある。
 ある日、3階担当の男性課長と4階担当の女性課長を我が家に招待した(バンコク駐在はカミサンとふたりの子供を連れてのものだった)。カミサンはヤムウンセンと言う春雨サラダを一生懸命作った。ふたりは塩をかけて、出されたサラダを残さず食べてくれた。会話も弾み、僕らは楽しいひとときを過ごすことができ、2時間ほどしてからふたりは我が家を後にした。だが実は、その頃カミサンはタイ料理の基本がまったくわかっていなかった。タイに来たばかりであったので、まあ無理もなかったのだが。数日後、カミサンが僕に言った。
「ふたりにもう一度来てもらえたらいいのにね」
 実は、事もあろうに、ヤムウンセンには、いや、タイ料理には絶対欠かすことのできない"ナンプラー""パクチー"そして"マナオ"を入れなかったのだ。ふたりにとっては最悪のまずさだったに違いない。だが、ニコニコしながら全部食べてくれたのだ。翌日、
「クリス、アピンヤ、まずかっただろう」
と僕はふたりに言ったが、二人は遠慮して、
「おいしかったですよ」
と言ってくれた。
 だが、それでは申し訳ない。数が月後再び我が家に招待したのだ。そのときは、タイ料理の基本を終了し応用編に入っていたカミさんの料理を、本当においしいと言って食べてくれ満面な笑顔を残して帰って行った。
 そのようなハプニングが、結果として彼らとのコミュニケーションにおいて、自然で肩の張らない関係につながったのだった。会社では僕は上司だが、仕事が終われば気の合う友人として時を重ねることができた。


 ハプニングは時として思いも寄らないプラスの何かをあたえてくれる。また、そのときの出来事がより鮮明に記憶として残るのもいい。
 赴任して間もない頃、会社での歓迎会があった。
 僕はどちらかと言うと酒は飲めるタイプだ。一次会でお気に入りのビアシン(タイのビール)をひとりで四本は飲み、その後歓楽街でもあり言葉をダイレクトに学ぶ学校でもあるタニヤと言う場所に繰り出した。そこでも水割りを何杯も飲み、カラオケに興じ、
「ネハン(社長)、タイ語うまいね」
の言葉にのせられて、バンコクの一夜を楽しんだ。
 アパートに着いたのは、午前2時を過ぎていた。
 さすがに酔っ払っている。このような状態のときに一番欲しくなるのが、そう、水なのだ。僕はキッチンに行き、水道の蛇口をひねった。ジャアーという音と共に、勢いよく水が流れ出る。僕の喉は完全に水を渇望している。並々とコップに水を注ぎ、一滴も残さずイッキに飲み干した。そのうまさと言ったらフカヒレなど目ではない。喉が潤い満足したせいか、その後急に激しい睡魔が襲ってきた。僕はベッドに直行しすぐ横になった。
 その次の瞬間、
「いっけねえー、死んじまう!」
と、思わず大声を出し僕は飛び起きた。
 そう、タイではタイ人も水道の水を直接飲むことはほとんどない。水は浄化されペットボトルなどに入っているポラリスやナムシンなどを買うのが常識なのだ。
 酔いは一気に冷めた。吐こうとしてトイレに駈け込んだものの、こういうときに限って吐けないものだ。一刻も猶予はならない、命がかかっている。すぐに薬箱を開け、日本から持ってきた正露丸を七粒ほど飲んだ。少なくともこれで生命の危険は回避できたと思い安心した。正露丸のお陰で、下痢もせずに翌朝を無事迎えることができたのだった。
 その日、この話をスタッフに話した。
 すると彼は、
「大丈夫ですよ、直接飲んでも」
と言う。
 事務所には冷水器が置いてあり、この水を日本人もタイ人もみんなが飲む。通常はこの冷水器に浄化済みの販売されている水を入れるのだが、彼は違った。理由はいたって簡単で、経費を節減するために、毎日そのタンクに水道水を直接入れていたのだった。そうとは知らない僕たちは、毎日その水を飲んでいたのだ。
 毒は毒を制す。僕に何も起こらなかったのはこのためだったのだろう。
どうもありがとう。君のお陰でお腹が鍛えられたよー
とはさすがに思えず、
信じられないことをするすごいヤツー
と思ったのを今でも覚えている。


 毎年4月12日~14日は、タイのバラモン陰暦の新年であるソンクラン(水かけ祭り)だ。
 農業国であるタイでは、昔から農作物にとって雨は大切な恵みだった。ソンクランとは、簡単に言えば"水に感謝する行事"と言えるだろう。だが今では、ただ人に水をかけて楽しむイベントになっていて、僕の会社でもそれは例外ではない。
 その日は、社員通用口でホースとバケツを持ち、不敵な笑いを浮かべた10人くらいのスタッフが社員の帰り際を待ち構えている。実際、ホースとバケツの容赦ない水攻撃に諦めるしかないのだが、それでも僕は抵抗した。
 手の平ほどの大きさをした水鉄砲を持ち、ひたすら"受け"だけを狙い、さながら007のように華麗に銃を構えオーバーに立ち振る舞った。
 初めてのソンクランでこれをやったお陰かどうかはわからないが、僕とスタッフたちとの距離が急速に縮まったような気がした。僕らにとって、ワイシャツ姿のままびしょびしょに濡れてしまうのはイヤなことではあるが、これもタイの伝統文化だ。そのときばかりは、童心に帰り異文化間コミュニケーションを大いに楽しんだ。
 そのお返しと言ってはなんだが、タイスタッフが日本に来たときはとにかく楽しんでもらいたい。寒中水泳や氷上でのワカサギ釣りに雪合戦などがお薦めだろう。
 タイの雨季は5月~10月だ。日本の梅雨とは違い、時折激しいスコールに見まわれる。下水の整備が遅れているせいだろうか、すぐに水が溢れ大水になる。タイ語では、ナム・トゥアムと言う。それは半端ではない。
 実際に、昔は川になった道路を手漕ぎボートが走り、それで商売をしていた人たちがいたと言う。この時期の住民は慣れたもので、特に商店を構えている人たちは、雨が降り大水の気配を感じると、店の前に砂袋を積み始める。もちろん水の浸入を防ぐためである。
 そんなとき困るのがバイク通勤だ。
 カッパを着、腿まで裾を捲り上げ、サンダルに履き替えての出勤だからだ。ひどいときは、バイクのマフラーに水が入り止まってしまう。周りにも立ち往生しているバイクがいっぱいあるのだが、スイスイと走り去っていくバイクもある。
 どうしてかとよく見てみると、そこは生活の知恵。マフラーにホースを注して腰くらいの高さまで持っていき、水の浸入を防いでいるのだった。
 思わず、
んん、さすがだー
と感心した記憶が蘇る。
 水で溢れかえるのは、何も外だけとは限らない。僕が住んでいたアパートは築15年で古いせいと立て付けが悪かったせいだろうか、寝ているときに天井から大量の水が降ってきたことがあった。バケツ3杯分はあっただろう。
 寝小便をしてしまい、それをごまかしたかった子供には"恵みの水漏れ"だっかもしれない。しかし残念ながら、当時33歳だった僕にとっては、ただただ腹が立つ出来事だった。だが、このような経験はそうできるものではないであろうから、水洩れ事件については貴重な体験ができたと言うことで、全てを水に流した。


 僕が安心してタイで仕事ができた一番の要因は、家族がタイを気に入り、タイの生活に溶け込んでくれたからだった。治安については、夜・夜中に歓楽街や暗い道を歩いていれば確かに危険は付きまとう。だが、それは日本も同じであろう。そのような時間帯にそのような場所に行くことさえしなければ、危険な目に遭うことは滅多にあるものではない。
 当時カミさんが買い物に行くときは現地のバスを使っていた。クーラーが付いていないバスのため中は最悪の暑さだ。だがカミさんはそのバスが気に入っていた。庶民の足であるバスを使うことでバンコクという街を感じたかったらしい。バンコクでバスに乗ると、現在多くの日本人が忘れてしまった、他人への思いやりや気遣いに触れる場面に度々出会い、嬉しかったとカミさんは言う。
 僕も何度かバスに乗っているが、確かにカミさんの言う通りだ。老人や重い荷物を持っている人、赤ちゃんや幼児を連れている人などには必ずと言っていいほど、すでに座っている人たちが当たり前のように席を譲っていた。市場にカミさんと買い物に出かけた帰り、両手に荷物を抱えた僕らに20歳くらいの青年が声をかけてくれた。当時、年齢的にはまだ30歳前半と若かったカミさんではあったが、青年ににこりと笑いを返し、
「コップン・カ(ありがとう)」
と言ってその青年の気遣いを素直に受け入れ席に就いた。青年もまたさわやかな笑顔を返してくれた。とても気持ちが暖かくなったことを今でも思い出す。
 帰国してから1年が経とうとしている。東京では目まぐるしく時が過ぎて行った。だが、僕の中でのバンコクは相変わらずゆっくりとした時間のままだ。あくせくせず、マイペンライ(気楽にいこうよ)の精神で他人に優しいタイ。そんなタイに住めたことが、僕ら家族にとってどんなに素晴らしいことだったか。
 来年の3月には家族でタイを訪れる計画を立てている。思い出に触れるためではなく、新たなタイに触れるために。