ジョアン・ミロ 「農園」論評


*プロローグ

 独特な画風で知られる画家のジョアン・ミロを広辞苑では次のように紹介している。
『スペインの画家。バルセロナ生まれ。パリに出て超現実派の画家となり、抽象化された記号的な形象よる幻想的な画風に進んだ。版画、彫刻などもよくした。作「農園」「星座」など』
 今回、僕が展開する作品論の絵画は、ミロの代表作の一つである「農園」である。以下、四つの視点から論を重ねていくことにする。

 

 

 

1. ストーリー性

 

 大多数の人が絵画を鑑賞する場合、自分の価値規準に基づいた直感や主観でその作品の良し悪しを判断するであろう。そしてその判断は、作品鑑賞後に解説を読んだところで簡単に変わるものでもない。同じように画家も、独自の判断基準で作品を仕上げていくのであろう。
 世の中には偶然と必然が混在している。しかし僕が思うに絵画の世界では、まず小説のごとく「ストーリー」が存在した上で、初めて「視覚」に相当する絵も存在すると考える。従って、絵が完成される過程を見るならば、ビジュアルな「視覚」が先行するという偶然はあり得ず、すべてが「ストーリー」という必然を基に成り立っていると解釈する。
 このことは結果として、作品が絵画という「視覚」的な芸術であるにもかかわらず、「ストーリー」というストイックで小説的な芸術になっているものと考えることができるだろう。具現化された一つのフィクションあるいはノンフィクションとしての「ストーリー」をベースにして、初めて視覚的絵画が存在すると僕は考える。
 フロイトの手法のように、すべてをあるものに結び付けて解釈しようとする方法は、決して100パーセント正しいとは思わない。しかし、人が取る行動の大部分においては、その本人の何らかの意図的で確信的な意思がはたらいていると思われる。だが、視覚的に対象を丁寧にしかも詳細に描くこと自体は、画家の性分や性格に由来するものと考える。また、心に思い浮かんだものをそのまま描く可能性も完全に否定はしないが、一方では対処物を偶然に思い浮かべたときに本人は、それを取捨選択する意思決定を下されなくてはならないであろう。つまり、その選択には本人の大きな意思が働かなくてはならないのである。
 この時点で、偶然の可能性は消え去り必然のみとなる。
 つまり、何を登場させ描くかは、対象物への好みであるとか、画家の気紛れな性分や性格などの曖昧なものに由来するものではなく、明確で堅固な目的と強い愛着や思い入れなどの、意識的な論理的思考が必要となってくる。言葉を変えるならば、衝動にかられ思い浮かんだ幾つかの対象物を、無秩序に何の意図もなく一つのフレームに組み入れると想定すること自体が不自然なのである。
 1921~1922年にかけて、ミロが28歳のときに描いた「農園」という油彩の作品は、まさに「ストーリー」が先行し、「視覚」が後に施されたといっても過言ではない。しかしある解釈では、そこに描かれているそれぞれのものは、
彼の心に思い浮かんだままに描き並べられたものとなっており、客観的にひとつの視点から見たものではない。だが、まさにその点に、彼がこの風景に注いでいた愛情がうかがえるー
というものがあった。
 そうであろうか?
 僕には、そこに描かれているそれぞれのものは、ミロによって意図的に登場させられた主役であるように思える。つまり、偶然の主人公たちではなく、用意周到に配役を得た必然のキャストのように思えるのである。従って、この絵の中の倒れたバケツやその脇にあるジョウロ、飼われているウサギや鶏、構図的にはポイントにもなっている木などすべては、ミロが偶然心に思い浮かべ並べたと考えるには、あまりにも大胆すぎる解釈に思えてならない。ただ、解説のとおり、その風景に注いだ彼の愛情があったからこそ、帰結としてこの絵が完成したのであろうと僕も考える。
 僕が「農園」に出遭い受けた第一印象は、視覚的観点からすると、彼自身が持つ大胆で確固たる揺るぎのない直感と主観のレトリックによって作品は描かれたというものである。 つまり、構図や配置、配色やコントラストなどは、彼の天才的な視覚表現に基づく直感的な偶然性の結果であったと確信する。だが、内容解釈的には、精緻であり恐ろしいほど完全に計算し尽くされたプロットにより完成させられた必然性のものであると解釈する。
「農園」という作品を見た上で、どうしても僕にはミロが対象物を恣意的に登場させているとはとても思えないのである。あくまでも冷静にかつ意図的に必然性を持った上で、作品に対象物を投入しているとしか考えられないのである。

 

 2.計算されたシュールレアリスム

 

 この「農園」を僕なりに解釈すれば、このような作品が完成したすべての原点は、ミロが1920年、ダダの運動に参加したことにあったと考える。
 ダダとは、第一次大戦中から戦後にかけて起こった、反理性・反美学・反道徳をスローガンに掲げた、美術・文学上の一連の反抗運動の総称で、現実を嫌悪し、あらゆる伝統的価値や形式を否定したものだった。
 作品は、作風からいえばシュールレアリスムと呼ばれる。この作品が発表されたときは、まだこの言葉はなかった。だが、いうまでもなくシュールレアリスムの原点はダダにあった。
 シュールレアリスムは超現実主義と訳される。逆説的ではあるが、作品が現実を越えるためには、現実をモチーフにした作品に挑まない限り、その作品はまったく別次元で完成されたものとなり、現実と現実に近い非現実、あるいは完全なる非現実のような比較対称ができず、作品が現実を越えたかどうかという判断を立てることはできないであろう。
 この作品に様々なものが登場する理由がここにある。いや、シュールレアリスムを証明するためには、できる限り多くの現実である対象物を作品に登場させる必要があったのである。作品に登場するのは、現実の中にある生命体と非生命体である。生命体でいうならば、進化論説か、はたまた全知全能の神が創造したともいわれる人間や小動物であり、太古の昔から進化を遂げてきた植物などである。非生命体でいうならば、文明の発達が可能にしたブリキのバケツであり、幌馬車などである。
 描かれている対象物は、すべて現実に存在するものである。ところがこの作品には、日常使われていたであろうと思われる食器やテーブルなどは描かれていない。逆にいえば、使われていたと思われるその他の物が、ほとんど描かれていないのである。
 なぜか?
 ミロにとっては必要のないものだったからである。
 彼の判断では、「農園」を現実との比較対称として、現実を嫌悪しあらゆる伝統的価値や形式を否定する作品に仕上げるには、この作品に描かれている小道具たちで十分だったのである。つまり、思い浮かぶ物を偶然に描いたのではなく、意図的に彼の取捨選択判断の上で、敢えて小道具の的を絞ったのである。すべては必然の産物だったのである。その結果として、彼の狙い通り満足のいく充分なシュールレアリスム作品に仕上がったのである。

 

 3.視覚としてのサイケデリック

 

 視覚的観点でいえば、「農園」はサイケデリックな作品である。だが、そこには緻密に計算し尽くされ配置された、現実世界の数々の主人公たちが登場する。
 作品では中央に位置する大きな木が重要なポイントになっていると考える。
 木は人間が存在する以前からこの地球に生きてきた。紛れもなく悠久の時を越え現実の世界に存在してきた。地球の歴史を物語る現実という木を、敢えて中央に配置することと、文明の象徴であるバケツを作品の中央下部に配置したことにより、心憎いほど意図的に、しかも端的な形で、完全なまでに現実の世界を表現することに成功した。
 さらに、文明の象徴であるバケツを倒しておくという辛らつなエッセンスの香りも忘れていない。また、爬虫類のトカゲや軟体動物腹足網のうち、陸上にすむ貝類の総称であるカタツムリ、そしてウサギや鳥が、人間である女性よりも、しかも後を向いているのだが、絵の中では手前に描かれており、何やら文明批判、つまり自然環境の中で生きてきた生き物たちに優先順位を置くことで、自然環境を破壊してきた人間たちを批判しているようにも捉えることもでき、その視点が何とも鋭敏でかつ表現方法がユニークである。
 良く見ると、中央にはまるで宇宙人のような生命体が描かれている。宇宙人は現実のものではない。現実のものである可能性は否定しないが、今のところ確たる証拠はない。
 いったい何を意図して宇宙人を描いたのだろうか?
 ミロは現実を描くことで、シュールレアリスムを完成させ、現実と比較対称する手法を執ったはずではないか。
 僕が推測するに、シュールレアリスムが現実を凌駕した、ということを宣言したかったのではないだろうか。現実に存在する個々の対象物を登場させ作品は完成されているが、一枚の絵として全体を見れば、間違いなくサイケデリックな作品に仕上がっている。大切なことは個々を活かすことによって、全体としての仕上がり度合いを高めることだろう。つまり、個々の現実をモチーフにし完成されたこの作品は、すでに全体として超現実の域に達していた。従って、作品中、現実に存在しないものを登場させる必要性はなかったのだろうが、小さくてよく見ないとわからないような大きさで宇宙人を描いたことと、彼独特の一流のユーモアセンスにより、敢えて超現実を出現させ、その超現実的な存在である宇宙人にシュールレアリスム勝利宣言をさせたのではないだろうか。こうなると、この作品をストーリーと呼ばずに、何と表現すれば良いのであろうか。
 いずれにしても、ストーリーはもちろんのこと、構図や対象物の配置に関しても天賦の才能を持ち合わせた画家であったことには間違いない。

 

 4.映像性 
 
 ここで別の観点として、「農園」と映画との関係について触れてみたい。
 映画にはもちろん脚本がある。脚本がなければ作品は完成しない。「農園」の絶対的素晴らしさのひとつはストーリーであるが、もうひとつある。
 それは映像である。
 動かない作品に対して、映像という表現は不釣合いであり違和感があるかもしれない。先程、この作品をストーリーといわずに、何と表現すれば良いのであろうか、と述べた。この「農園」ストーリー、僕にとっては、作品に登場する小道具たちの動きや営みが、現実のものとして動いて見えるような作品に仕上がっている。つまり、単なるストーリーを越えており、映像としての映画に近い作品なのである。さらにいえば、シュールレアリスムでありながら、温度や匂い、音や光などの絶対的現実がリアルに迫ってくるのである。それほど現実が、忠実なモチーフとして描かれているのである。
 平面に描かれた物理的には動くことのない絵画。しかし、ストーリーが加わることにより、理論的には動くはずのないものが、僕の目の前で間違いなく動き出す。ストーリーという魔術が成す技である。
 それぞれの小道具たちの動きに緩慢さはない。リアリズムを越えたからこそ、生き生きと役者たちが動き出す。しかも、その動きやキャストには大切な意味合いがある。まったく無駄がない。
 僕にとって、「農園」の芸術作品としての高い評価の根源は、ストーリー性であると共に、映像性だったのである。たった一枚の静止した絵画が、まるで映画であるがごとく僕に物語を観せてくれたのである。

 

*エピローグ

 

 絵画を映画に変えることに成功した一人の才能高い画家、ジョアン・ミロ。彼が西暦2004年の今、もし生きていたらどんな映像を僕に観せてくれたのであろうか。時を経ても、彼が僕の期待を裏切ることは決してないであろう。それはこの画家が、疑う余地のない優れた脚本家であるからなのである。
 さらに付け加えるならば、「農園」はストーリー性、映像性を通して、僕たちをほのぼのとした気持ちにさせてくれるのだが、その最たる理由は、彼の人間性にあるのだろう。
 彼は、芸術を敷居の高いものとして捉えてはいなかった。等身大で芸術というものを創造してきたのである。そんな肩肘を張らない柔らかな彼の性格が、作品をほのぼのとしたものに仕上げさせたのだろう。
 独創的なストーリー性と映像性、そしておごり高ぶることのない人間性を兼ね備えた彼の作品が、多くの人々に支持され愛されるのは至極当然のことなのであろう。