2006年12月24日

 今年は中古ビデオ屋のおかげで、思いもよらず外国TV作品を揃えることができた。そのシリーズは  

「AMAZING STORIES」

「TALES FROM THE DARKSIDE」

「THE OUTER LIMITS」だ。

 これらの作品形態は1959年に放映された「THE TWILIGHT ZONE」をお手本にしている。
 いずれの作品も一話完結型の不思議で奇妙な物語だ。もっとも揃えたかった「THE TWILIGHT ZONE」は、残念ながら1本も揃わなかったが、他の3シリーズはそれなりに揃えることができた。手に入らなかった作品については、今後も他のビデオ屋をあたり全作品を揃えたい。これらの作品はすべて一話完結なので、作品により当たりはずれがあるのも事実だが、ついつい次の作品に期待してしまう。個人の見解では、面白さは「THE TWILIGHT ZONE」「THE OUTER LIMITS」「AMAZING STORIES」「TALES FROM THE DARKSIDE」となっている。
 余談だが、「X FILE」はすでに全作品を見終わっていたのだが、全シリーズがすべて揃って売られていたので、つい購入してしまい満足な気分を味わった。


 さて、ここからは、「不思議で奇妙な」をテーマにした僕の超短編作品を一読ください。

 

「ザイールの夕日」

 

 父は貿易を営む中小企業の社長で、規模は従業員10人の小所帯だった。私が幼い頃から従業員たちは、私のことを我が子のようにかわいがってくれた。私が3歳のときには妹が生まれ、父は事業をさらに拡大した。
 私たち家族は、父の仕事の関係でよく外国に出かけた。私にとってこの数多い外国旅行の経験が、後々私を商社に就職させるようになったことはいうまでもない。
 25歳のとき私はザイールに赴任した。すでに結婚しており、妻とふたりでの赴任だった。ザイールは思ったよりもいいところで生活は充実していた。500へーべーはあろう広い家に、4人のメイドがおり、日本ではとても考えられないような贅沢な生活を送ることができた。
 赴任して1年が経ったころに妻が身ごもり、在任2年目の終わり頃には元気な男の子が産まれた。名前は雄大とつけた。ザイールの中心地から車で一時間も走ると、心が豊かになるほどの大草原が開けてくる。琥珀色の大きな夕日が地平線に沈もうとする瞬間、筆舌に尽くしがたいほどの美しい景色が目の前に現れる。正に雄大な自然が人間を飲み込んでしまう。息子は名前のとおりのびのびと雄大に育っていった。
 メイドたちは息子をかわいがってくれた。そんな息子とメイドを見ていると、本当にザイールにきて良かったと思った。妻も現地の人たちと交流を深めていた。パンやケーキの作り方を教えたり、現地の言葉を習ったりと日々の生活を妻なりに楽しんでいた。
 ザイールの人たちは実に陽気で明るかった。私は彼らのその表情がたまらなく好きだった。こちらもついその笑顔につられしまい、本帰国する頃には、しかめ面という言葉とその表情を忘れていたくらいだった。
 時はゆっくりと、しかし確実に過ぎ去って行った。5年の歳月が過ぎた頃、ついに日本に帰らなくてはならない日がやってきた。妻と息子はメイドたちとの別れが辛く涙を止めることができなかったようだ。私にしても同じだった。息子に優しくしてくれたメイドに感謝してもしきれないほどだった。
 部屋の荷物整理も終わり、あらためて部屋を見回して見ると、壁には懐かしい子供のいたずら書きが目に止まった。それは、オレンジ色をした丸い絵だった。家族皆で見たあの雄大な夕日を描いたのだろう。本当に美しかった。今でも鮮明に私の脳裏に焼き付いている。私たちは、一生この夕日を忘れることはないだろう。そして、ここで出会った人たちのことも。
 日本での2年間の生活の後、私はニューヨークに転勤になった。
 今度も家族を連れての赴任だった。ただ、違っていたのは、もうひとり子供が増えて家族が4人になっていたことだった。1歳になる女の子で、名前は優子だった。優しい子に育つようつけた名前だった。
 ニューヨークはザイールと違い、何もかもが早く刺激が多い街だった。ここでは皆が自分を主張したがった。まずは自分を主張しなければ相手が認めてくれないような雰囲気が漂っていた。子供の順応性は早いもので、1年が経つ頃には、息子はいっちょうまえに私たちにディベートを挑んできた。妻は妻でニューヨークの生活になじんでいた。一方私も、同僚の外国人とジャズを聞きにいったり、バーに飲みに行ったりと生活を満喫していた。
 仕事は順調で大きな商談をまとめたところだった。この功績が認められ、異例の昇進をし、収入も上がりアパートもさらに広いところへと移ることができた。順風満帆のニューヨークだった。そして7年の駐在を終え日本に帰国した。
 私は40歳を迎えようとしていた。両親は変わらず元気でいまだ老いることを知らず、というところだった。子供たちはのびのびと育ち、親バカかもしれないが、本当にまっすぐに成長していた。外国での生活が子供をより成長させたのだろう。外国と外国人に接することによって、子供たちはかけがえのない何かを感じたに違いない。
 10年がさらに過ぎ子供たちは私と同じように商社に入社した。10日間の長期休暇を子供たちが併せてとったときのことだった。私と妻に旅行に行かないかと話を持ちかけてきた。行き先はかつて過ごした懐かしいザイールだった。私は仕事のスケジュールを調整し、ザイールへ行く段取りをした。ザイールを離れてから、すでに20年の月日が経っていた。
 私たち家族の目的は同じで、あの頃のメイドや友人たちと再会することだった。果たして私たちは再会することができた。昔話に花を咲かせ、お互いの無事と健康を確かめあった。私たち家族は、あの雄大な夕日を見に出かけた。草原に着くまでの街並はだいぶ変わってしまったが、あの夕日は全く変わることなく、私たちを暖かく迎えてくれたのだった。
 長女がこの夕日を見るのは初めてなのだが、
「お父さん、私この夕日遠い昔に見た気がする」と私に呟いた。
 私はその言葉を聞き黙ってうなずいた。妻と息子はただ黙って夕日を見ていた。二人の目頭からは、透き通った雫が今にも零れ落ちそうだった。私も同様だった。様々な思い出が去来した。再びこの夕日を家族で見る機会が訪れるとは思ってもみなかっただけに、なおさら感慨深いものがあった。私たちは言葉を交わすことなく、それぞれの思いを胸に秘めてただ夕日を見続けた。私たちにとって、本当に最高のひとときだった。
 私たちにとって、ゆっくり、そして優しく時は流れていった。
 ふたりの子供にそれぞれ男の子と女の子の子供が生まれていた。私も妻も4人の孫を持つような年齢になっていた。振り返って見ると、私の人生は何と幸福だったのであろうか。優しい両親、妻そして思いやりのある子供たちと、かわいい孫たち。悔いのない本当に最高の一生を送ることができた。もう何も思い残すことはない。
 人間には寿命というものがある。私にもその寿命がそろそろきたようだ。この80年間、皆ありがとう。本当にありがとう。だんだんと私の目の前から生の光が消えて行くが、何の不安もない。安らかに眠りにつかせてもらうことができる。
 皆、ありがとう。そして、さようなら……。
 私は静かに息を引き取った。しかし次の瞬間、分娩室で胎児が生まれるのを私は見た。その胎児は紛れもなく私だった。
 この瞬間、私は理解した。今まで私は子宮の中にいた。私は子宮にいた約10ヵ月間で、80年を生きてきたということを。
 すでに80年間の記憶がなくなりつつある。しかしそれはそれでいい。今日から再び新しい記憶が始まるのだから。