1995年10月11日

 前回、映画のすばらしさについて二つの点をあげた。


1.記憶に残る何かがある。
2.擬似体験ができる。 
 

 更に今回も映画のすばらしさについて続けてみたい。

 3つ目は、想像力を増幅させてくれる、ということだ。特にSFX特撮技術を駆使している映画については、よりいっそうその傾向が強いと感じる。誰も見たことも行ったこともない世界を、映画は映像を通し僕たちに一つの可能性として、ある未知の世界を提示してくれる。それを受けた側が映像通りあるいはストーリー通りにそのまま受け入れるのか、それともさらに想像力を増幅させて自分なりにそのストーリーを変えてしまい楽しめるのかどうなのか。まあ、その人次第であるが・・・。
 ただ最近のSFX技術は進み過ぎてまっているために、そこから更に違うものを考えるという想像力の増幅は難しくなっているだろう。なぜなら、あまりにも映像がリアル過ぎ、その展開から逸脱した考えをもつことが難しいからだ。しかしリアルであればあるほど、そしてそのために想像カの増幅を発揮できる確立が少なければ少ないほど、逆に人間の想像力は限りない可能性をもって増幅させられると思っている。
 プラウンン博士が開発したデロリアンという車は、次元転移装置によって140kmに速度が達するとタイムスリップが可能だ。マーティーはデロリアンに乗り2015年へタイムスリッブし、空飛ぶスケポーを操り大活躍をする(バック・トゥー・ザ・フューチャー2)。大人たちに追われ、あわや間一髪のところで空に舞い上がる、エリオット少年率いる子供軍団の空飛ぶ白転車(ET)。どんな物体にも変化できる液体金属夕一ミネーター・T1000(ターミネーター2)等と制作者側の想像力豊かな作品をあげたら枚挙にいとまがない。
 しかしである。観る側による本当の想像力増幅の発揮はこれから始まる。
 例えば、デロリアンがチロリアンという名であったなら、マーテイーは2015年へは行かずにヘンゼルとグレーテルがいるお菓子の家に行き、二人を悪い魔女からなんなく助けだし、お父さんが待っている家に無事連れて帰ったことであろう。
 デロリアンがメロディアンという名であったなら、スイスに行き、そこでブラウンという名のホルン吹きの一番弟子になり冒険のない静かな生活を営んだことだろう。
 ETでは、自転車小僧たちは空から森へ降りるが、そのまま飛び続けてしまい成層圏を抜け、ついにはETの住む惑星に着いてしまったとする。そうなると映画の視点はまったく変わってくる。そこではETは住人として、エリオットは宇宙入として描がれ別のストーリーが成り立ってくるだろう。
 ターミネーターがミネラルウォーターだとしたら、化学的に液体金属にはなり得ない。所詮水はただの水。従って最後の戦うシーンはこうなるだろう。高温の為にT1000の体は蒸発してしまい戦うことなくシュワルツネッガーの勝ち。
 悪乗りしすぎたかもしれないがこれも想像力の増幅だろう。まさに、これが映画の醍醐味だと僕は思う。

 今日「Witch Hunt」(デニス・ホッパー主演)を観た。作品の説明は省かせていただくが気に入った台詞があった。
~今のキスで一冬越せるわ~
~人生の夢と失望は裏腹。魔法では何も変わらない。要は信じることだ。何かを信じて人は生きていく~。

 唐突だったが、気にいった台詞だったので書かせていただいた。
 真剣に何らかのテーマを語りかける監督たちの作品に対して、僕の思うような想像力増幅は大変失礼かもしれない。しかし、である。確かに、監督の意図した作品のテーマを考え、場面場面でそのテーマの糸口を確認していきながらの鑑賞も楽しいのだが、想像力増幅もやってみればなかなか楽しいと思うのである。