1996年11月27日

 

 またまたいい作品に出会った。

 

ラングーンを越えて」(Beyond Rangoon)

1995/アメリカ
監督:ジョン・ブアマン
主演:パトリシア・アークエット/ウー・アウン・コー

 

という作品だ。
 1988年8月のミャンマーが舞台となっている。この作品を語る前にミャンマーの歴史について簡単に触れておきたい。作品に対する理解度が多少なりとも変わってくるはずだ。

 北方から移住してきたビルマ族によって11世紀に最初の統一国家が成立した。19世紀に3度にわたるイギリスとの戦争で領土を失い、1886年イギリス領となった。1948年1月4日独立。62年ネ・ウィン将軍がクーデターで政権を握り、閉鎖的なピルマ型社会主義路線を推進。74年人民会議による民政に移管、その後は集団指導制をとったが長期間にわたり経済停滞を繰り返した。88年9月、ソウ・マウン国防相の率いる国軍がクーデターを決行し、国家法秩序回復評議会を設置。89年6月、国名をビルマからミャンマーに、首都ラングーンをヤンゴンに改祢した。90年5月軍制下での総選挙では、アウン・サン・スーチー女史率いる野党の国民民主連盟が圧勝したが、ソウ・マウン政権は軍制維持の姿勢を続け反政府運動を弾圧した。92年後継となったタン・シュエ議長は、戒厳令の解除と地方行政区の民政移管、国民会議の開催を発表。93年1月新憲法策定のための国民議会が開かれる。しかし、軍事政権は依然として絶大な権限を握っており、89年7月以降自宅軟禁状態にあったスー・チー女史を95年7月に解放したものの、白由な政治活動を認めない姿勢を見せている。スー・チー女史は、ピルマ建国の英雄アウン・サン将軍の娘であり、88年以来のミャンマー民主化=反軍政闘争の最高指導者とみられてきた。スー・チー女史の自宅軟禁は、91年10月に女史がノーベル平和賞を受けたこともあり、軟禁継続はミャンマー政権の人件弾圧を象徴するものとして、国際的に注目されることになったのだった。
 
 作品はアメリカ人の医者ローラが、今は教職を追われツアーガイドで生計を立てている元ラングーン大学教授のアウン・コーと共に、人権弾圧の現状を世界に伝えるために、同志の学生たちと共に、ミャンマー軍政府から砲撃を浴びせられながらもミャンマーからタイへと越境する、というものだった。
 ローラは夫と子供を殺され、その辛い思い出を忘れるために姉のアンディーとミャンマーを訪れた。ある日、夜眠れずに街へ出ると、デモに出くわした。そこで見たのは、銃を向けている兵士たちに、優しく微笑みながら非暴力で近づいて行くスー・チー女史の高潔で気高い姿だった。
 翌朝、ローラはパスポートを紛失したことに気づく。出国できないため、数日間首都を離れ車で田舎への小旅行に行くことにした。そこで出会ったのがアウン・コーだった。
 最初の検問所で高慢な兵士の態度に出会う。アウンはいう。


―被らはカを誇示したいのだ―


二人はアンダーテーブルを兵士に渡し、無事検問を通遇できた。最初に訪れたのはアウンが子供時代に入門した寺だった。そこは反軍政の学生達の隠れ家でもあった。
 その夜ローラは夫と子供の夢を見る。眠れずにいるとアウンがいう。


―どんな人生にも苦悩はつきまとう。幸ぜというのは天からの贈り物で、つかの間の夢にすきない― 

 

 翌朝、兵士たちが寺を査察に来たため僧侶を残して全員寺を後にし、避難キャンプで落ち合うことにした。ローラとアウンは検間を強制突破し追われる身になる。しかもアウンは肩に銃弾を浴びるというハンデを負った。やっとの思いで二人はラングーンに戻るが、そこでは軍が市民に発砲していたのだった。
 その光景を写真に撮っている外国人ジャーナリストがいた。ローラはこの光景を見ながら心のなかで呟いた。

 

―あの写真が虐殺の唯一の証拠だ。中国の天安門事件はテレビで流れた。でもピルマは違う。世界はこの惨劇を知らない。この惨劇を世界に伝えなくては―


 二人はみんなが待っているキャンプヘ到着した。そして翌日全員で川を越えでタイヘ越境することを決意する。
 その夜ローラは再ぴ夫と子供の夢を見、眠れずにいる。アウンはいう


―全ては幻だ。生き延びて人の命を救うことこそが私たちに与えられた使命だ―


 決行の朝がやって来た。
 タイ側には木の看板があり、"ここからは、タイです"と書かれていた。軍政府の砲撃を浴びながらみんなは川を渡って行った。砲撃は容赦なく続いた。そして二人は・・・。

 平和ボケした自分とバンコクでの暮らしがいかに快適で贅沢なものかを再認識した次第である。日本に住んでいれば遠い外国のできごとぐらいにしが思わなかったかもしれないが、タイに住んでいる以上、ミャンマーはお隣の国で、しかも地続きだ。僕自身のことをいえば、たまたまタイに住んでいたのでそミャンマ一に注意を払った、いうのが本当のところだ。映画を通してミャンマーどいう国を多少なりとも知ることができたのは僕にとっては幸いたった。

 エンティングで次の肉容がスクりーンに流れた。

―民主化運動の中で数千人のビルマ人が殺され、70万人が外国に脱出、200万人が密林に逃げた。現在も拷間と弾圧が続いている。1990年の選挙で女史の民主連盟が圧勝したが、軍政府は政権の引き渡しを拒絶した―

 1996年現在、軍政府による人権弾圧のトーンは徐々に落ちていると思われる。それはミャンマ一政府が経済先進諸外国からの経済支援及び投資を必要としているからである。
 いずれにしても今後のミャンマーの発展は民主化の成否によるところが大きいと思われる。スー・チー女史の今後の健闘を祈りたい。