1997年5月28日

 

 

 先日、死刑囚をテーマに掲げた2本の作品、

 

ラスト・ダンス」(監督:ブルース・ベレスフォード 主演:S・ストーン/R・モロー)

デッドマン・ウォーキング」(監督:ティム・ロビンス 主演:S・サランドン/ショーン・ペン)

 

を同時に観たことで、改めて死刑制度について考えさせられてしまった。

 作品に入る前に世の中の死刑制度を見ておく。
 現在死刑制度を全面廃止している国は、ドイツ、フランスなど西ヨーロッパ諸国を中心に48カ国に上る。イギリス、イタリア、スペインなど16カ国では通常犯で死刑制度を廃止し、21カ国では最近10年以上死刑を執行していない。1989年12月、国連総会において死刑廃止条約が採択され、1991年7月より発効し21カ国が批准している。批准国は死刑廃止を義務づけられる。国連では1994年12月、死刑廃絶条約への加盟推奨と2000年までの死刑執行停止要請を盛り込んだ決議案が提訴されたが、日本を含む反対票によって否決されている。

 日本の総理府が94年9月に3000人に対して行った。アンケート調査のうち「どんな場合でも死刑は廃止すべきである」と答えた人287人に、死刑制度を廃止する理由を質問したところ次のような理由が上げられた(複数回答)。
<人を殺すことは人道に反し野蛮である 41.5%>
<誤りがあったとき取り返しがつかない 35.2%>
<生かしておいて罪の償いをさせる 33.8%>
<国家でも人を殺すことは許されない 33.4%>
<悪質な犯罪者でも更生の可能性がある 25.8%>
<悪質な犯罪が増加するとは思わない 19.9%>
<その他、わからない 1.4%>
という回答内容だった。犯罪者は客観的事実の検証とその裏付けによって逮捕され罪を問われる。そしてその犯罪レベルによっては極刑(前記のように国によって極刑の内容は異なる)を言い渡される。法治国家であるならば至極当然のことであろう。

 では作品に入ろう。
「ラストダンス」の死刑囚シンディは、19歳のとき幼なじみとその恋人を殴打殺害し、死刑判決を受ける。12年間の服役中でやっと心を開ける人物、恩赦課の弁護士リックと出会った。死刑執行まであと30日。二人の心の琴線を軸に死刑囚の心理を描いていく。
 「デッドマン・ウォーキング」のマシューは車内でイチャついていた男女を車から引きずり降ろし暴行のあげく射殺、死刑判決を受ける。マシューから手紙で救いを求められたシスターヘレンは、精神的(カソリック教徒として魂を安らぎの世界に導く)、物理的(連邦裁判所に上訴し死刑を取りやめ、終身刑にする)に惜しみなく協力する。彼女は徐々に彼の閉じた、そしてひねた心を開いていく。最後、彼はヘレンに懴悔することで、心に背負っていた重荷を下ろし精神の自由を得る。
 両作品とも死刑執行の手段は青酸カリの体内注入だった。死刑執行台に縛り付けられた彼らが、ガラスの向こう側にいるリックとヘレンを見つめるときの目の表情は、優しく安堵に満ちていた。明らかに全ての畏怖から解放され、安らかさに包まれていた。
 
 映画というのは誰に感情移入するかによって印象が違ってくる。
 殺された子供たちの両親に感情移入すれば、死刑囚が安らかに眠っていいはずはない。一方死刑囚に感情移入すれば、悔悟の念を抱き死んでいくのだから安らかに眠ってもいいだろうと、全く正反対の立場になる。どこに視点を置くかが重要だ。そういう意味では「ラスト・ダンス」は、両方の視点に立てるような具体的な描写はされてなかったが、「デッドマン・ウォーキング」は殺された男女の両親とヘレンが話し合うシーンがあり、殺された子供達の両親の悲嘆、痛惜の念、憎悪を、抑制をきかせて描写していた。この描写が感情的でなかっただけ余計にこの作品を際立たせていた。このシーンの中で父親はいう。

―私はかつて死刑廃止論者だった。だが今は違う―

 これが身内を奪われた者の本当の胸のうちであろう。えてして、人は表面で物を語る。しかし事がいざ自分に降りかかってきたときに、もう一つの顔を出す。僕は是非論を言っているのではない。人というのはそれくらい中途半端であるという事実をいっているのだ。死刑制度を肯定あるいは否定するにしても、まずあらゆる角度(法、人権、医学、哲学、倫理等)からの検証が不可欠だ。
 僕らは感情をもった生き物であるが故に、最終的に感情を絡めないでの判断は難しい。しかし死刑が制度である以上、それについて判断するときに感情論が先にくることはあってはならない。
 先日、幼女連続殺人犯の宮崎被告に、地裁は死刑を求刑した。一般的な感情論でいえば幼い女の子を殺害したのであるから、死刑は当然と受け止められるだろう。もちろん死刑制度がなければ死刑求刑はできない。では帝銀事件の平沢被告の場合はどうだろうか。彼の場合、冤罪の可能性が強い。それでも死刑制度がある以上、例え冤罪であっても死す刑求刑を受ける。
 すでにお分かりのように、死刑を論ずるのと死刑制度を論ずるということは、根本的に違うのである。だからこそ死刑制度の是非を安直に考えることはできない。とても奥が深いテーマである。