2013年2月3日

86歳の父が安らかな顔をしたまま天国に旅立ってから10日が過ぎた。きっと別天地でも楽しく心豊かな生活を送っていることだろう。
今回のコラムは、父と息子を題材にした僕の○評価作品名を紹介するにとどめ、父をモチーフにした僕の短編小説を掲載する。

 

「オーロラの彼方へ」「ジョンQ ―最後の決断―」「ロレンツォのオイル 命の詩〈うた〉」

「ライフ・イズ・ビューティフル」自転車泥棒」「木洩れ日の中で」「故郷への遠い道」
「グレイテスト・ゲーム」「ジャック・フロスト」「砂の器」
「ヤング・ゼネレーション」

「チャンプ」「河童」「オーバー・ザトップ」「マグニチュード明日への架け橋」

「アメリカン・ハート」 「クール・ドライ・プレイス」「北京ヴァイオリン」

「ロード・トゥ・パーディション」 「ピエロの赤い鼻」「MY FATHER マイ・ファーザー」

「My Son あふれる想い」 「月夜の願い」「幸せのちから」「海辺の家」「ザ・ロード」

「サンクタム」 「山の郵便配達」

 


「木漏れ日を聴いて」

 午後八時、会社から帰宅し妻と息子、娘の四人で夕食を摂っていたときだった。七五歳になる母から父の様子がおかしい、という電話がかかってきた。
 電話の内容からして、脳梗塞の疑いがあった。
妻には症状を説明し、すぐに救急車を呼ぶよう伝え、私は大きな靴音を真っ黒な空に響かせながら実家にかけつけた。一分後には到着し父の容態を見ると、予想通りだった。
顔は重石を付けられたようにうつむいている。今にも崩れ落ちそうな体制で壁に背中をまかせ両足を投げ出している姿勢が痛々しい。さらに、左肩が完全に脱力しているのが一目でわかった。声をかけると、明らかに言語障害も見られた。今は物置になっている二階に駆けあがり、押入れから毛布を出すとすぐさま父を目指した。
 父の意識はあるものの、この状況に私の鼓動は押し寄せる高波のようにうねっていた。
五分後、救急隊が到着した。
母が床に倒れるまでの父の状況を隊員に説明し終えると、ストレッチャーに乗せられた父は救急車に運ばれ、私と共に病院に搬送された。救急隊員は脳梗塞の可能性が大きいと私に告げた。
七十歳に腹部大動脈瘤の手術をして以来の一大事だった。

 父、正一は私が生まれた年、労働省の洋服工一級技能士検定に合格した。
父は、幼い頃から祖父が経営する町の仕立屋で直々に洋裁を学んだ。片目が不自由な祖父だったが、洋裁の技術は一流で、父には惜しむことなくすべての技術を伝授した。一時、学徒動員により洋裁から離れることになるが、復員後、祖父の店でテーラーとしての道を再び歩む。七十歳のとき店を閉め引退したものの、近所から頼まれれば、サイズ直しに精を出した。
 ジャキ、ジャキという裁ち鋏で布を裁つ音。
ゴゴ、ゴゴゴ、そしてガッコガッコと回転に勢いがついていく足踏みミシンの音。
鉄アイロンの温度を確かめるジュッという音。
布に水をかけるシュッ、シュッという音。
生地を広げたときの繊維の匂い。
アイロンをかけられた布に生気が漲るときの独特なこげた匂い。
父の仕事部屋に様々な音や匂いがあった。
 私が小学三年生のとき、
「健一、アイロン台に絵を描くな」
と、父に頭を叩かれた。ふてくされた私は、カッター台にあった型紙を鷲掴みにし両手でグチャグチャにし放り投げ仕事部屋から逃げ出した。その夜、父は夕飯に姿を現さず、仕事部屋にこもっていた。
翌日母から聞いた話では、アイロン台の張替えをし、型紙の再生をしていたという。数日後、それを聞いた私は、父が仕事部屋にいない隙を見て、カッター台に置かれていた目打ちや鳩目、のみや数本の裁ち鋏とにぎり鋏を、大きさの順にきれいに並べ替えた。
 その夜、家族四人で夕飯を摂っていたときに、表情を変えずに父が言った。
「今日は仕事がはかどった」
 緊張してこの言葉を聞いた私だったが、
「裁ちが良かった」
と父が二回目の発言をしたとき、私は顔を上げ父を見ることができた。しかし、父は私を見ることなく、変形している親指を使いながら黙々と箸を動かしていていた。
数日後、家庭科で雑巾を縫う宿題がでた。
手縫いよりはミシンのほうが速いと思い、ミシンを使いたかったのだが、父が使用していたので終わるのを待つことにした。私が布を持って立っているのに気づいた父は、ミシンの足を止めた。
「座ってみろ」
 私はドキドキしながら腰を降ろした。
ミシンを動かすのはそれが初めてだった。どのようにやるかはわかっていたつもりだったが、大違いだった。まずは、足が届かない。立ちながら踏むことで、この問題は解決したのだが、踏むタイミングがわからず、糸が絡まってしまったり、切れたりしてしまう。糸が切れてしまうと、今度は糸をどこに通せばいいかがわからない。なにせ複数箇所に通さなくてはならない。さらに難しかったのは通す糸が一本でないことだった。
「よく見ておけ。ここに通したあと、今度はここに通す。そして最後にここだ。そうしたら、ゆっくり踏む。その布は使わないでこれでやってみろ」
 言われた通りに糸を通し、いよいよ縫う作業が始まった。とにかく布と足踏みをゆるりゆるりと動かした。とても直線縫いとは言えない波線になってはしまったが、何とか縫うことができた。
「よし、その布でやってみろ」
 いよいよ本番だ。
今度はまっすぐ縫うことができた。時間にしてどれくらいだったのか確かな記憶はないが、父が雑巾を手に取り見ていた時間は長かったように思う。私は、ありがとう、の言葉を大声で残し雑巾を宙に回しながら仕事部屋を出た。
 翌日、いつもなら集団登校で二番目を歩く私だったが、足取り軽く歩く順番を何度も無視してしまい五年生から怒られてしまった。そして、家庭科の時間。
「榊原君、先生は手で縫うように言いましたよ」
 先生から予期せぬ注意を受けた。他のクラスメートは確かに手縫いだ。
「先生、まっすぐに縫えました」
「榊原君、ミシンで縫えば誰でもまっすぐ縫えます。先生の言うことを聞いていなかったのですか。他のみんなはちゃんと聞いててくれましたよ」
 怒っている父の顔、あきれている父の顔、そして悲しんでいる父の顔が浮かんだ。
その日、私は父の顔を正面から見ることはなかった。

 私は高校を卒業し自らの意思で生地問屋に入った。
いつの頃からか、どうしても父に作ってもらいたいものができた。結婚式に着るタキシードがそれだった。そのためには、上質の生地を選ぶ知識が必要だった。父が上質の生地を選ぶことは簡単だろう。だが、全て父任せというの気が進まない。そうなれば、縫製ができない私には生地を選ぶという選択肢があるのみだ。私が極上生地を選び、父が最高級の技術で仕立てる。この上ない着心地と大きな満足が待っていることは間違いなかった。
 生地問屋から連絡があり入社が決まったその夜、家族揃ってのささやかなお祝いの席が設けられた。
「健一、就職おめでとう。泥んこ遊びをしていた健一が社会人だなんて。しかも、生地問屋で働くなんて。お父さん、良かったですね」
「お兄ちゃん、お父さんの仕事部屋によく入っていたよね。遊ぶものなど何もないのに」
「仕事部屋にはそんな入っていないよ」
「そんなことないと思うけど。面接では志望動機、何て応えたの」
「アパレル産業の成長は今後も続く。新しいデザインの服がどんどん出てくる。でもその服の生地が上質でなければ着心地はよくない。多くの人に最高の着心地を提供したいからと応えたよ」
「なるほどね、良い答えかもね」
 昔から父はほとんど酒を飲まなかった。その理由を私が尋ねたことはない。
「父さん、明日は仕事休みだろう。少し飲まない」
 期待はしていなかったが、予想に反した答えが返ってきた。
「少しだけ飲むか」
 母と妹は私をチラッと見た。目じりを下げた母がグラスを食器棚から取り出し私に手渡した。私はグラスを父に差し出し、曲がった親指に支えられたグラスにビールを注いだ。
「お兄ちゃん、就職、おめでとう。乾杯」
 父の口からも、乾杯の言葉がはっきりと聞き取れた。一口だけ口をつけた父は、いったん仕事部屋に行き、何かを持ってくるとすぐ食卓についた。
「生地問屋なら今後使うこともあるだろう」
 父がくれたものは年期が入った裁ち鋏だった。
「大事に使え」
 そう言うと、父は漬物を口に入れ、
「よく浸かっている」
と満足した表情で母を見た。

 私が芳美と結婚したのは、今から二十五年前の二十五歳のときだった。
「父さん、結婚しようと思う」
 裁ち鋏を動かしていた手が止まった。
「そうか」
 立ち上がり、生地が積まれている置き場に行き何かを探し始めた。その動作を見た私はポケットから切り取って持ってきた生地を出した。
「父さん、タキシードを作って欲しい。この生地で」
 父は生地を見つめ、指で感触を探っている。
「いい生地だ」
「会社で見つけた生地だよ」
「式はいつだ」
「父さんたちが賛成してくれれば、半年後には挙げたい」
「責任を持ってお前たち二人で決めればいい」
 反対されることはないと思っていた。
「寸法を測るからそこに立て」
 十五分後には、全ての採寸が終わった。
「生地はいつ持ってこられる」
「明日の夜には」
「一ヶ月で仕立てる」
「式は半年後だから、もっとゆっくりでいいよ」
 父は私の肩を叩き、中断していた裁ち鋏を動かし始めた。
 半年後、予定通り式が行われた。
式の終盤、父は両家の代表として事前に用意したあいさつ文を読んだ。あいさつ文をたたみポケットにしまい、これで式は終了すると思われたのだが、唐突に一言口にした。
「息子が着ているタキシードの生地は、本人が選び私が仕立てました」
 これだけ言いお辞儀をしたので、どうにも締まりのない終わり方になってしまったのだが、司会がうまくフォローしてくれ式は無事終了した。
 新居は実家から徒歩五分の場所に構えた。翌年には長男の優一が、翌々年には長女の綾子が誕生した。また一つ、さらに一つと父手縫いのぬいぐるみが増えていった。同時に、父から裁縫を習う子供たちの腕前も成長と共に増していった。

 私が生まれる九年前、祖父は五十二歳で、その一年後に祖母は四十七歳という若さで亡くなっていた。二人ともくも膜下出血だった。
父は二十一歳を迎えた途端に両親を次々と亡くすことになる。兄弟姉妹はいなかった。両親を亡くしてから十年後、母にプロポーズし結婚を決め、その翌年に私が誕生した。二階の物置部屋には、父手縫いの濃い茶色のクマのぬいぐるみが今でもある。
父と母の出会いは突然ではなかった。
同じ町内に住んでいた。何度か洋服を仕立ててもらったこともあり、お互いに顔は知っていた。町内会長の勧めで見合いし結婚を決めた。父の店は繁盛していたこともあり、二人で出かけることはほとんどなかったが、様相が変わったのは、私や妹の紀子が生まれてからだった。
家族のアルバムにはいろいろな場所で撮影した写真が残されている。写真に仏頂面した父はいない。秋になると、私と二歳下の紀子を釣りに連れて行った。釣り場は千葉県浦安市にある漁港の防波堤だ。私が釣りを面白く感じたのは、仕掛けや餌付けが自分でできた二回目からだった。
「ここから先には出ないように」
父は持参したガムテープを、防波堤の縁から五十センチ離れたところに毎回張った。狙う魚はハゼだ。とにかくよく釣れた。
「お父さん、また釣れた。さっきより大きい」
紀子が一番はしゃいでいたが、針を外す父の表情は、仕事部屋とはまるで違い、頬は緩みっぱなしだった。帰宅してからも、その頬は緩んでいた。父はハゼのハラワタを自分で取り捌いた。ここまでが父の役割で、揚げるのは母の役目だった。何回も釣りに行っていると、時折、大物がかかることもあった。三十センチを越え鱸だった。鱸が釣れたときは、食卓も一段と賑やかになった。しかし、食卓を賑わせた三人での釣りは、妹の小学校卒業と共に幕を閉じた。
父は考古学にも興味があった。
家にはがらくたにしか見えないかけらがたくさんあった。父の自慢は参加した発掘で見つけた小さな黒曜石だったが、私にはビール瓶のかけらにしか見えなかった。
一度だけ連れられて発掘に参加したことがあった。
移植ゴテや竹ベラでただひたすら土を掘り起こし、土器や石器を探す。確かに、何かが出土するたびにボルテージは上がるのだが、私には楽しめなかった。その繰り返しが延々と続いたため、私は飽きて作業をやめた。
「どうした」
「つまらない」
「そうか、つまらないか。これは壺や器のかけらだ。発掘されるものから昔の生活がわかる。興味ないか」
 私は興味ないことを告げたが、父が帰り支度をすることはなかった。つまらなかったが、何もしないよりは退屈しのぎになったので、一番形のいいかけらを一枚だけ持ち帰った。このかけらも二階の物置部屋のどこかにある。
 家族写真の枚数で一番多いのは海水浴の写真だった。
紀子が小学四年生のとき、家族で海水浴に出かけたのだが、紀子が迷子になってしまった。父は鬼のような形相、そしてこの世の終わりのような表情で、紀子、紀子と叫びながら浜辺を走った。私は父同様に目が泳いでいる母に連れられ、迷子預かり所へ走った。そこには呼吸を乱し大粒の涙を流している紀子がいた。
「お父さん、紀子がいました。迷子預かり所にすぐきてください」
 いつもは控えめの母が、マイクを自ら持ち声を発した。すると、間髪置かずに紀子、紀子と遠くから父の叫ぶ声が聞こえた。私は妹が父に怒られるのだろうと思いかわいそうにと思ったのだが、父はただ黙って泣いている妹の手を握り締めた。
迷子になった妹の水着にはマジックで書かれた名札が縫いつけられていたのだが、翌日には、背中一面を覆い隠すほどの大きな名札が縫いつけられた。

 その夜は小雨が降っていた。
二十四歳を迎えて二時間が過ぎた深夜、父は物音で目を覚ました。音の先には人影があった。とっさに泥棒と叫ぶと、その人影は窓ガラスを壊し逃げ去った。仕事部屋は荒らされており、あるはずの鋏一式は消えていた。このときのことを未だに夢で見ては、年に数回、寝言で泥棒と叫ぶ。
鋏がなくては仕事にならない。
翌日には鋏一式を購入した。その中でも裁ち鋏は高価なものだった。今でもその刃は、どのような生地でもスーッと裁ってしまう。鋏の要部分の下に、商標登録、長太郎、東鋏と刻印されている。同業者でこの名前を知らない人はいない。
子供の頃、この鋏を使ったことがあるが、ずっしりとして非常に重かった。しかし、厚い生地でもザックザックと止まることなく刃は進んでいく。薄い生地でもしっくり生地に食い込みサクサクと刃は走った。
母と生地を買いに行き、薄い緑色の生地を購入した。一枚の生地から、エプロンほどの大きさのものを本格的に作るのは初めてだった。父の前で生地を広げ鋏を入れようとしたら、早速注意された。
「どんなエプロンを作る」
「普通のエプロン」
 父は製図し型紙を作るように言った。
「まずは、ここに描いてみろ」
 考えていたエプロンを描こうとしたのだが、なかなかうまくいかない。何枚か描いた後、一枚を採用した。
「紐が描けてないぞ」
 エプロン本体の形しか描かなかった私は、適当に紐を描いた。
「エプロンの紐は何本いる」
「二本」
「二本では足りないだろう。最低、三本は必要だ」
 確かに、首にかける一本と、腰の後ろで縛る二本が必要だった。それぞれの長さを考えるように言われ長さを決め、それを製図し型紙に追加した。チャコペーパーを生地と型紙の間に挟み、まち針で固定し、型紙に描かれた線をへらで強くなぞった。生地には跡がつき、いよいよ裁断だ。切れ味はよく、思うように裁つことができた。そして紐を縫いつけ初めてのエプロンは完成した。
 だが実際は、父の助けを相当借りての仕上がりだった。エプロン本体や紐の縁仕上げやポケットのことなどまるで考えてもいなかった。縁を仕上げるには余白スペースが必要だったのだが、それを描かなかったため、その余白部分の折り返しが必要となり、できあがったエプロン本体は、考えていたものよりも小さめに、そして紐はとても細くなってしまった。裁断後に、アイロンで折り返しをつけ縁を縫うなど、私には思いもよらなかった。
裁断前、父からの注意があれば、適性サイズのエプロンは完成していた。

 ツートントン、ツートントン。ミシンを踏む音でない、もう一つの父の音だった。
 昭和二十年五月、二十歳の父は豊川市にあった横須賀海軍通信学校豊川分校で、第九期普通科暗号術練習生の教程を終了した。艦船勤務を望んだが、戦況の悪化で乗船できる艦は少なく、千代田区霞ヶ関にある海軍省内の東京海軍通信隊に暗号員として着任する。このとき父は、米内海軍大臣が前を通ったとき、全身が硬直するのを感じながら停止敬礼をしている。
地下にあった暗号室は五月二十五日の大空襲で全焼したため、さらに階下にある地下三階の防空室が暗号室になる。八月十四日、海軍少佐から、天皇陛下から重大放送があるので謹んで聞くようにとの指示があり、翌十五日、地下三階で玉音放送を聞くことになる。十七日には暗号書の焼却命令が下り、十八日には四人一組で焼却にあたる。焼却場は屋外にあり、白煙は日比谷公園へと流れていった。
豊川分校の同期たちとの交流は続いている。
年に一回場を設け、お互いの健康を確認し過ぎ去った日々を語っている。今はない豊川分校の写真や、各人が書いた当時の雑記帖コピーは相当な量になる。しかし、年を追う毎に出席人数は減っており、年賀状の枚数も目に見えて少なくなっている。
父は六十五のとき、四人の同期を家に招待し私も参加することになった。父から幾度となく聞いていた、(精神棒)(甲板掃除)(貴様 それでも帝国海軍軍人か)(まるろくまるまる、総員起こし)(ひだり、ひだり、ひだり、みぎ)、などの言葉が次々と繰り出された。その中でも全員の記憶に強く残っているものに五省があった。

一、至誠に悖る勿かりしか
一、言行に恥づる勿かりしか
一、気力に缺くる勿かりしか
一、努力に憾み勿かりしか
一、 不精に亘る勿かりしか

 海軍兵学校の生徒たちが、その日の行いを自省するための問いかけが五省だ。終戦後、五省の精神に感銘したアメリカは、アナポリス海軍兵学校で英訳版を掲示した。また、海上自衛隊幹部候補生学校及び海上自衛隊第一術科学校でも旧海軍の伝統として今も継承されている。
皆が持ち寄ったアルバムに納められている白黒写真の大きさは、マッチ箱ほどのものが多い。私の目を惹いたのは父のアルバムに納められている、大日本帝国海軍と書かれた帽子を被っている、ぽっちゃりした青年の父だった。実にあどけない。死を覚悟した人の顔には見えない。集まった同期の写真を見ても、同じようにあどけない顔が並んでいる。そのあどけなかった顔立ちの人たちが目の前にいる。
 集まった同期たちは父同様、艦船に乗り命を捧げたかったという。数多くの青年が靖国神社で静かに眠っている。号令をかけ唱和をしている父たちの姿には、死を乗り越えてきた強さと誇らしさがある一方で、死んでいった仲間たちへの呵責の思いが、今もなお胸の奥深くに潜んでいる。

【爽やかや一刀のごと鋏砥ぐ】
 六十歳のとき父はエッセイを投稿し大賞を取った。テーマは鋏で、挿入した句がこれだった。父の俳句歴は半世紀を迎える。
 大賞は夫婦で行くパリ、ロンドの旅だったが、後にも先にも海外旅行はこれだけだった。大賞を含めて三組の夫婦が成田から飛び立った。旅行を満喫し生涯の思い出という母から聞いたことだが、父は他の夫婦とよくしゃべっていた。観光では一台の車に乗っての移動だったため、話す機会が増えたことも要因だったが、招待された人たちが、鋏を通して繋がっていたことが最大の理由だった。一人は理髪師、一人は植木職人だった。まさに鋏を操るプロたちだった。案の定、話は鋏のことが中心だった。観光地の中でプロフェッショナル三人が最も気にいたったのは、鋏の博物館だった。
 初めての海外旅行に失敗は付き物だ。
バスタブに湯をためていたのを忘れ、水浸しにしてしまい二人で大騒ぎをした話は、今でも母の口から出てくる。母がこの話を持ち出すときには必ず父がいる。寡黙な父だったが、この話がでると雑巾を絞る真似をし母を喜ばせる。家ではお茶しか飲まない父だったが、レストランでコーヒーを頼んだとき、コーラが運ばれてきた話もよく聞いた。この話のときも父はお茶に口をつけると、まずい、という顔をして母を笑わせる。
【元朝や健やかな吾子膝の上】
 この句は私が生まれたとき、父が詠んだ句だ。
仕事部屋にこもりがちな父だったが、仕事が休みのときは、外出し俳句を創っていた。年に数回は吟行会にも参加した。俳句に興味を持ったのは、母との結婚が機だった。母の俳句歴は十歳から始まり、父の俳句道は母からの影響によるものだった。特に夫婦で参加する吟行会は、父にとって楽しみの一つだった。
百冊を超える大学ノートに記されている父の句は様々だった。
【弦のごと糸を鳴らして縫初め】
 海外旅行で詠んだたくさんの句を詠んでいる。
【モンマルトル朧になりて絵を仕舞う】
 東京海軍通信隊の暗号員としての句もある。
【暗号書汗し焼却戦終ふ】
 参加した俳句大会で受賞したこともあった。
【紫を少しふくみし白菖蒲】
私の結婚式で詠んだ句もある。
【春立ちぬ芳しき二人健やかに】
 そして初孫の句。
【優し梅健やかにして芳しく】
 私の傍には俳句があった。私自身が小学生のときに創った俳句覚えている。
【ひまわりは高く大きく咲いている】
 これ以降、私自身句を詠んだことはないが、父の作品数は増え続けている。

 病院の救急室に到着したのは、家を出てから十五分後だった。
すぐにストレッチャーに乗せられレントゲン室に運ばれた。待合室での三十分は一昼夜にも思えた。三十代半ばの女医に告げられた診断は、脳梗塞と左慢性硬膜下血腫の併発による、左上下肢の麻痺、そして言語障害だった。しかし幸いなことに、画像では梗塞も血腫も大きなものではなく、手術は必要ないとのことだった。梗塞を散らす薬で対応が可能との判断が下された。念のためICUにてその夜は様子をみることになった。命に別状がないことを家族に連絡した私は、翌日からの入院準備のため一度自宅に戻った。一式を用意し再度病院へ向かった。持参したものを看護士に預けた後、マスクをし薄緑の面会着に着替え父の傍らに立った。点滴が効いていからだろう、その場では目を覚ますことはなかった。翌日から精密検査を開始し治療方針を確定するとのことだった。
症状は落ち着いていたため、午前十時過ぎにはICUから一般病棟の四人部屋へと移動した。病室は十五階にあった。辺りを遮る建物がなかったため、ベッドから見える眼下に広がる眺望は素晴らしいはずなのだが、父がその感動を口にすることはなかった。
血液検査を含めたさまざまな検査の結果が出たのは、夕方の五時過ぎだった。救急での診断同様、薬による治療方針が告げられた。午後八時を過ぎる頃には、優しく光る月がベッドに寝ている父を見守っていた。
 思考や判断能力は以前と同様で健全だったが、数日間は見舞いに行っても無口のまま、ただ天井の一点をぼんやり眺めている日が多かった。この世の不幸を一人で背負ったような、これほどまでの表情をした父を見たのは初めてだった。
 息子と娘が見舞いに行ったとき、窓際にあるベッドで父は眠っていた。
起こさずに帰ろうとしたとき、父の右手が空を彷徨い動き出した。動かない左手を動かそうとしていることもわかった。二人は気づいた。無意識に何かを縫っていると。
 左手首には針刺しをつけており、ここから針を抜いている。針には紐が通っているようだ。動かない左手で布をたぐろうとしている。指を気にしているのは指貫の収まりが悪いからだろうか。一連の動きが落ち着き、右手の曲がった親指と人差し指が忙しく動き出した。本格的に縫いものを始めたようだ。動かない左手で布を引っ張ると、右手の針が進む。この繰り返しが続いた。
入院してから一週間が経つ頃には、リハビリが始まり、十日目には、自立歩行はまだ無理だったが、介護棒に掴まれば自立して立位を保つことが可能になった。トイレまで連れて行ってもらう必要はあったが、そこから先は、一人で用を済ませることができた。
父を喜ばせた一番のできごとだった。
動かなくなった左手と言語のリハビリは続けられた。療法士によるリハビリが終わっても、療法士から支持されたことを一人ベッドで忠実に実行した。すぐに結果は出ないものの、リハビリを始めてからの父の表情は、日を追って和らいでいった。
利き手の右手に障害はなかった。
俳句が書けるようにとノートと鉛筆を置いておいた。
【裁つ布の道しるべかな月明り】
ノートに綴られた最初の句だった。
五ページが埋まった十八日目の十二月三十日、退院の日が来た。車椅子の生活に不自由がないよう、実家はリフォーム済みだった。
 まだ左手を動かせないため、車椅子を自在に操ることはできない。移動には母の介助が必要だった。母も高齢のため、家の中の移動は任せたが、近所への外出時は、私を含め妻と子供たちとで対応することにした。
 一日の大半は自宅で過ごすことになるのだが、父にはもってこいのリハビリ室があった。仕事部屋だ。
ミシンを踏むことは足のリハビリになる。うまく踏めなくても筋肉を活用しようとする行為は、回復までの期間を短縮する。また、左手を使い生地を広げる動作も同様に早期回復に繋がる。起床してから就寝まで、相当な時間を仕事部屋で過ごした。言語障害の回復についても、うまくできなくても五省を唱和し続けた。

 退院二日後の元日、父は句を詠んでいた。
【縫初や父より継ぎしこの手職】