2002年12月20日

 

 

 今年観たいくつかの作品を通して、「狂気」について考えてみた。

 そこでふと思ったのは、理性に基づいた狂気の恐ろしさだった。「13日の金曜日」のジェーゾンや「ハロウィン」のマイケルのような快楽的、衝動的、情緒・感情的な場当たり的である狂気はもちろん怖い。一方、心に秘め静かに殺害の炎を燃やしている人の狂気は、即座に顕著な形では表れない。従って被害者たちはその狂気に対して事前の策を講じることができない。そのような意味では、秘められた悪意ある狂気ほど始末に終えないものはない。
 

 今年観た作品で、上記のような最悪の狂気が描かれていたのが、

 

「ファニーゲーム」<FUNNY GAMES>
1997/オーストリア
監督:ミヒャエル・ハネケ
主演:スザンヌ・ロタール/ウルリッヒ・ミューエ

 

だった。

 彼の作品「ピアニスト」は2001年のカンヌで3部門を受賞している。
 さて、「ファニーゲーム」だが、内容は、ごく普通に生活する家族3人の元に狂気を秘めた青年2人が訪れる。そして、家族の平穏な生活が、精神的かつ暴力的に壊されてしまう、というあまりにも不条理で救いようのないほど退廃的な作品だった。監督は、暴力の恐怖を再認識してもらうために制作したと語っている。青年2人の心理はというと、まさにタイトルのとおりで、楽しいゲームなのである。彼らにとって殺人は、ただのゲームに過ぎない。
 
 猟奇的な殺人事件や残虐な事件を題材にした作品は数多いし鑑賞している。しかし、これほどまで犯人が、たんたんと精神的・暴力的殺人を犯しそれを楽しんでいる作品には、幸いにも今まで出会っていない。昨今、日本でも考えられないような殺人事件や幼児虐待などが起きているが、容疑者たちはどれほどの気持ちで事件を犯しているのだろうか。まさか、この映画のように心底楽しみながら罪を犯しているとは思いたくないのだが。
 
 ファニーゲームほどのインパクトはなかったが、

 

ハリー、見知らぬ友人」<HARRY, UN AMI QUI VOUS VEUT DU BIEN>
2000/フランス
監督:ドミニク・モル
主演:セルジ・ロペス/ローラン・リュカ

 

アメリカン・サイコ」<AMERICAN PSYCHO>
2000/アメリカ
監督:メアリー・ハロン
主演:クリスチャン・ベイル/ウィレム・デフォー

 

なども、秘められたる恐るべき狂気だった。

 前者の作品は、友人思いの人物が、友人に対して行う彼独特の解釈による親切をし、彼の家族を・・・というもので、後者は、27歳の高級な暮らしをする青年が、快楽のために殺人を犯していくというものだった。

 両作品の主人公は、一見では異常者とはわからない。むしろ、一般的な人々である。彼らの心には誰にも理解できない絶望的なほど暗澹たる病魔が潜んでいた。作品では、あくまでも事象に対して話が進行していくので、なぜ、彼らがそのような性格の持ち主になってしまったか、という詳細の深層心理の経緯は描かれていない。誰しも人生においては、本人が思い描くような生活や環境作りはなかなかできるものではない。かといって、それだけの理由では、人は自暴自棄になり凶悪犯罪には走らないだろう。たとえそのような犯罪に走る人がいたとしても、やはり全体から見ればごく少数だろう。ほとんどの人が凶悪犯罪に走ることなく暮らしているという事実はからすれば、やはり大罪を犯す人々には要因が推定できる何らかの特別な環境や状況に原因があるとしか考えられないということになる。


 
ゴールデンボーイ」<APT PUPIL>

1998/アメリカ
監督:ブライアン・シンガー
主演:ブラッド・レンフロー/イアン・マッケラン

 

という作品では、男子高校生トッドと老人という組み合わせの中での狂気が描かれている。

 ある日、彼は元ナチスの将校である老人を偶然見つける。そして彼は戦争犯罪人である老人に対し、警察に通報しないことを約束する。しかし、その引き換えに大量殺戮が行われた収容所でのずべてを話すように強要する。老人の元に通い話を聞くうちに、トッドは良識を失いはじめ残虐的な性格が徐々に形成されていく。一方、トッドに収容所でのできごとを話していくうちに、老人にも失われていた思われる深層の狂気が再び顔をもたげてくる。
 トッドの場合は、老人の話を聞いたことにより新しい別の性格が形成されてしまったようだが、老人の場合は、もともと潜んでいた邪悪な内なるものが、ひょんなことから再生されてしまったことになる。結果としては、双方が触発しあったため、あのようなラストになってしまった訳である。
 作品冒頭では、トッドはごく普通の高校生として描かれているが、彼の過去描写はなかった。彼は本当に老人の話だけを聞いて、変わってしまったのだろうか。そのようなことがあったとしても、決しておかしくはないのだが、彼のそれまでの人生において、残虐性を誘発するような何か特別な環境や状況が本当になかったのだろうか。そのように考えると、トッドの描写に関しては、もう少し納得のいく伏線があってもよかっと思うのだが。
 
 最近発表された警察庁のまとめによれば、日本の刑法犯発生件数(2002年1月~11月)は、268万件で7年連続、過去最悪を記録したようだ。 特に重要犯罪(殺人、強盗、放火、婦女暴行、誘拐、強制猥褻)は、2.9%増の20,354件だった。また全国で検挙された刑法犯少年は、約13万人で2年連続の増加となったようだ。なお、一般的に外国人による犯罪が多いように思われているが、実際の外国人刑法犯は約2万3千人と全体の発生件数からするとそう多くはない。今年の刑法犯の状況は、銀行やコンビニを狙った強盗が大きく減ったのに比べ、民家への侵入強盗や路上強盗、盗難重機を使ったATM盗などは増加の一途のようだ。刑法犯犯罪に対しての、総検挙率は、21.2%ということで、日本での治安についての安全神話は徐々に崩れつつあるのが現状のようだ。
 戦争は狂気であるといわれるが、戦争は人によって決定され遂行される。では、戦争を仕掛けた頂点に立つ人は、果たして狂気の持ち主なのだろうか。目の前にいる人を殺した殺人犯を見れば、誰しもがその人の狂気を認めるだろう。しかし、湾岸戦争やイラク攻撃を仕掛けた人を見て、しかもそこには国際的な同意がなされていれば、彼を狂気の持ち主と思う人々はかなり減るだろう。大義名分はあるにせよ、戦争には死者がともなう。わかっていて犠牲者をだすその行為―指示する人々も含まれる―は、やはり一種の狂気といえる行為なのではないだろうか。つまり、行きつくところの結論としては、狂気とは無関係な一般的生活を送っている人でさえも、心のどこかの片隅に、ささやかでくすぶっている大げさでない静かな狂気を持っているのではないだろうか。


 狂気は引き起こされる犯罪の大小とは無関係に存在しているのかもしれない。