2003年4月20日

 

 あるできごとに出会い、思考、熟考し、そしてそのことが正しいと確信し、やがて揺るぎのない信念になる。人により、状況により、その信念に到達するまでの道のりは長くもあり、短くもある。また、あえて対極的ないいかたをすれば、確立したと思っていた信念がもろくも崩れ去ることもある。崩れるからには、それ相応の事情があるだろう。例えば、最初から信念などという強固のものではなく、ただの思い込みや勘違いに過ぎなかった場合。信念の根幹を形成していたそれまでの思考、あるいは考え方を揺るがし覆すようなとても大きなできごとに遭遇してしまった場合などが考えられるだろう。


 「マジェスティック」<THE MAJESTIC>

2001/アメリカ 

監督:フランク・ダラボン 

主演:ジム・キャリー

 

は、人間の信念について考えさせてくれた。
 1951年のハリウッド。新進の脚本家ピーターはハリウッドで認められるのだが、突然共産主義者でもないのに赤狩りの標的となり仕事を失い、失望したまま車であてもなく走り続け、橋の上で事故を起こして川に転落してしまい、記憶を失ってしまう。見知らぬ海岸に流れ着いたピーターは、老人に助けられ彼の住む町ローソンに腰を落ち着ける。町では第二次大戦に出征し行方不明になった町の英雄ルークと間違われ大歓迎を受ける。そこでルークを愛していた女性と恋に落ち映画館を再会し幸せな日々を送るのだが、やがて記憶を取り戻すと同時に、ピーターを追いかけていた下院非米活動委員会に拘束され、公聴会での証言となる。  
 ピーターがハリウッドに戻れる唯一の方法は、仲間を共産主義者として委員会に告げることだった。わが身を守る方法を一度は決めたピーターだったが、あることからルークの強く深い信念を知る。「なぜ、すでに死んでいる人間の考え方が今も変わらないといえるんだ」と、ピーターが亡くなったルークの信念を信じている彼女に問うシーンがある。その答は、アメリカ合衆国憲法修正第1条の規定にある、思想と政治的信条の自由、にあった。ルークは遠い戦地から彼女に手紙を出しており、その中で自由の祖国アメリカのために戦っていることを誇りにしていると記していた。その手紙を彼女から渡されルークの心情を知ったピーターは、まさに思想の自由を奪う下院非米活動委員会に対し、戦線布告となる供述を行うことにするのである。
 敷衍的な意味で客観的に見て正しいと思われる信念であれば、個人レベルであってもえてしてそれは理解され伝播しやく、人を動かすことさえもできる。しかし信念という目に見えないものに対して、何を基準にして正しいとか間違っているといえるのだろうか。一般的な言い方にはなるが、やはり社会的モラルや道徳的規範に寄りかからざるを得ないのだろう。従ってほとんどの人の場合は、良識者であるので信念により何かを実現することが可能になる。しかし、その実現を可能にするためには欠かせない2つがある。強い意志と強固な決意だ。この2つがなければ、信念を貫きとおしての実現は不可能に近いだろう。
 
 ここで、ハリウッドを襲った赤狩りについて触れる。


 第二次大戦後のアメリカでは、万年与党の民主党政権が国民から飽きられる一方で、対外的には、ソ連の核保有(1949)、中華人民共和国成立(1949)、朝鮮戦争勃発(1950)などが連続したため、国内は共産主義の脅威におののいていた。マッカーシー上院議員をリーダーとする非米活動調査委員会(HUAC)による極端な反共主義とこれに関連する一連の思想、言論、政治活動を弾圧する運動(マッカーシズム)が下院から上院へ次第にエスカレートしていった。委員会にとって、ハリウッドのスターや有名人を召喚する事が、委員会の行動を一般大衆にアピールするための格好の宣伝となるからであった。まずは委員会に友好的なロバート・テイラーやゲーリー・クーパー、ウォルド・ディズニーなどに証言させたあと、いよいよ共産主義者及びそのシンパの疑いのある映画人たちを次々と召喚する。
 赤狩りが映画産業を崩壊しかねないと感じた俳優のハンフリー・ボガートや監督のジョン・ヒューストンたちは、アメリカ合衆国憲法第1修正条項の規定にある思想と政治的信条の自由を委員会が侵害しているとして「修正第1条項委員会」を発足し、ワシントンに乗り込んで抗議を行うが、委員会の力が強くなるに連れて反対運動は次第に衰えてゆく。また、委員会の圧力を恐れたハリウッドの映画スタジオは、共産党員及びシンパの疑いがある人物や、委員会への証言を拒否した人物のブラック・リストを作成して、このリストに名前が載った映画人たちをアメリカの映画界から追放していった。
 当時ハリウッドで最初に共産党員と目された人物は11人。その一人、ドイツ移民の脚本家ベルトルト・ブレヒトは、自分は共産党員だったことはない、と証言し、そのまま東ドイツに移住。残りの10人が「ハリウッド・テン」と呼ばれ、集中砲火を浴びることになる。 
その10人とは、一人の監督(後に裏切る)と9人の脚本家だった。ハリウッド各社はこの10人の解雇を発表した。10人の前には三つの選択があった。
1.これまで共産主義者だったことはない、と証言すること 
2.他の党員の名を名指しで証言すること(すなわち裏切ること)
3.一切の証言を拒否すること
 彼らが選んだのは最後の道だった。彼らは憲法修正第1条(信仰、言論、報道の自由及び集会と請願の権利を保障)により無罪を主張したが、委員会も裁判所もこの訴えを却下する。彼らは6~12カ月を獄舎で送ることになる。51年、第二の赤狩りが始まる。いわゆる「マッカーシー旋風」だ。1953年までには『緑色の髪の少年』(1948年・監督:ジョセフ・ロージー)や、『ジョルスン物語』(1946年・俳優:ラリー・パークス)を含めて324人もの映画人がハリウッドのブラック・リストにアップ、公表され、ただちにハリウッドから解雇されてしまう。彼らの多くはハリウッド・テンに倣い証言を拒否したため、投獄されるか、あるいは偽名を使い地下に潜って仕事を続けるかの選択にさらされた。またさらに先には失業と差別、苦難の道が待っていた。
 チャップリンも、非米活動調査委員会に召喚された一人だ。チャップリンに対する委員会の糾弾は厳しかった。もともと、アメリカに嫌気をさしていたチャップリンは、これを機にスイスに逃れるが、これは逃れたというよりは、国外追放といった方が正しいとする見方が、現在では定説になっているようだ。72年に『ライムライト』(1952年)が公開されるまでアメリカに再入国する事を禁じられていた。アメリカではその狂信的で過激な行動が反発を買って、1954年12月上院の問責決議がなされて下火となるが、ハリウッドでの赤狩りの影響は50年代の終りまで続いた。
 逆の話としては、エリア・カザン監督の話がある。彼は非米活動調査委員会に召喚されたとき、拷問を受けて11人の仲間の名前を白状してしまい彼らは投獄されてしまう。彼自身は難を免れ、その後「波止場」「エデンの東」を発表したが、ハリウッド人種にカザンは卑怯者として嫌われ、やがてメガホンを捨てる結果となる。

このような事実を下地にした作品が、マジェスティックだった。なんともハリウッドらしいアイロニーなのが、非米活動調査委員会の圧力を恐れて委員会に荷担したのがハリウッド映画界であり、委員会へ果敢に立ち向かったピークが再建したのは、街の映画館「マジェスティック」だった。こういうのを僕的には「ハリウッドらしい」というのです。