2006年5月14日

 5月4日、福島県北塩原村にある標高1271mの雄国山に登った。いろは坂のように蛇行した舗装道路をひたすら登っていく。その距離はわずか片道9km。だが、勾配はきつく上りは2時間もかかってしまった。頂上ではビールとお弁当で1時間。下りは1時間20分ほどだった。合計4時間20分の満足ウォーキングとなった。ちなみにここは、ハンググライダーのスポットでもあり、多くのライダーが雲と重なるように悠々と飛行していた。
 

 5月6日、昨年に続き同じ三人のメンバーで2回目の城ヶ島20kmウォーキングを実施。今回は海岸線ルートを長めにとり海を満喫した。久里浜から城ヶ島までは、昨年同様4時間。城ヶ島到着後は食事処にてビールを7本飲み1時間半をゆったりと過ごした。食後は、釣りをしに磯へ出たのだが、風が強く釣りには不向きな日だったので、一応糸は垂らしたものの、缶ビールが主役となる2時間だった。今年はある場所にタイムカプセルを埋めてきたので、来年はそれを掘り出し3回目の20kmウォーキングの感慨に浸ろうと思っている。
 

 4日と6日の2日間で計38kmを歩いたことになる。ちなみにこの38kmをビーチサンダルで歩いたので、足の甲には日焼けの跡がくっきりとついた。顔も腕も海水浴にでもいったような褐色になり、心地よい健康的な2日間を過ごすことができた。
 

GW最終日は、数本の作品を観たが、

シルビーの帰郷」<HOUSEKEEPING>

1987/カナダ 

監督: ビル・フォーサイス

主演:クリスティーン・ラーチ

 

を観て、作品の解釈について考えた。


 この作品は、母を亡くした二人の姉妹が、母の妹で長い間放浪生活を続けた誰にも束縛されない自由奔放な叔母のシルビーと生活を共にしていくうちに、彼女の世界観に惹かれ、姉妹それぞれが共感を得ながらも、結果的には、それぞれの道を選択するという作品だった。ラストでは、姉妹の姉であるルーシーがシルビーと共に自由を求めて街を出て行く。


 実は○をつけた作品ではあったのだが、なんとなくしっくりこなかったので思いをめぐらしてみた。それは、未来志向をテーマにしていると思えた作品が、ラストシーンの解釈によっては、正反対となってしまうエンディングとなっていたからだった。もちろんのこと、この作品を未来志向と捉える解釈も可能であるが、やはりあのエンディングに僕は違和感を覚える。つまり、曲解された未来志向、言葉を変えれば、未来とは対極にある、未来どころか現状をさらに悪くする改悪思考のように思えてしまったのである。


 解釈論でいえば、確かにルーシーは、今までの殻に閉じこもった自分から脱却し、そして新しい世界へ飛び出すために、ラストシーンにあるような鉄橋を歩いて渡る方法で街を出ることを決意した。未来への自分に向かって歩き出したともいえる。

 このシーンを一般的な未来志向の象徴にするための伏線はある。すでに中盤で、誰も歩いて渡ったことがなかったということがすでに描かれている。確かに誰も渡ったことがなかった鉄橋を渡るということは、象徴的には挑戦であり、飛躍のように思える。だが、僕がひっかかったのは、シルビーとルーシーの取った行動が本当の自由への羽ばたきとは思えないと解釈したからだった。

 自由奔放でいたいと思うシルビー、そして自主自決がなかなかできず友達もいないルーシー。そんな二人が自由と解釈をして求め、とった行動が、街から離れることだった。
 

 解釈を異にすれば、象徴的に見える自由に向かうはずの二人の決断は、単なる逃避ともいえる。現在の問題を置き去りに新天地を求めた二人。監督が、もし真の未来に言及するのであれば、まずは足元の問題を片付けるようなエンディングを観せてほしかった。問題への対峙こそが、真の未来への切符だと僕は考える。一見、未来への乗車券を手にした二人だが、その先には、何が待っているのだろうか。誰も渡ったことがない橋を渡らせるような、偽りの未来へ向かうようなくエンディングは避けて欲しかった。鉄橋の手前で立ち止まる、または引き返してくるシーンをスクリーンに映して欲しかったと思う。
 

 どう作品を捉えるかは人それぞれにより異なる。ちなみに、二人が消えていく鉄橋は漆黒の闇に包まれている。朝が来るという解釈論もある。闇に消えていくという解釈論もある。始まりから終わりまでのシーンをつなぎあわせ、それをどのように解釈をするかを考えることも映画の楽しみ方のひとつだろう。
 

 作品を観る時に、数は多くはないが真剣な自問自答という緊張感をともなうこともある。それも映画を観る醍醐味なのである。