2003年5月28日

 

以前にも書いたが、僕は主人公に感情移入するタイプだ。今回取り上げる作品では、完全なまでに主人公になってしまった。理由は単純。父親の立場で観たからだ。
 その作品は

 

ジョンQ ―最後の決断―」<JOHN Q>

2002/アメリカ 

監督:ニック・カサヴェテス 

主演:デンゼル・ワシントン

 

 

だ。描かれているテーマは、医療制度、医療保険、心臓移植、リストラなどの社会問題だ。
 ストーリー概略は・・・
 イリノイ州シカゴ、ダウンタウンに住むジョンQ(デンゼル・ワシントン)は、リストラにより収入減ではあるが妻デニスと9歳の息子マイクの3人と幸せに暮らしている。そんなある日、マイクが野球の試合中に倒れ、病院に担ぎ込まれる。診断の結果、心臓に中隔欠損が見つかり、心臓移植をしなければ数日から数週間の命と医師に宣告される。すぐにジョンとデニスは心臓移植を願い出るが、ジョンの加入している健康保険では、医療費が賄えない。なぜなら、ジョンの知らない内に保険の内容が変更されていたからだ。製鉄工場で半日勤務のパートタイマーへリストラさせられた際、補填額の上限が2万ドルの医療保険へと変えられていたからだった。従って病院は心臓移植を了承しない。
 心臓移植のためには、マイクをレシピエント・リスト(移殖待機者名簿)にエントリーしなければならない。しかし手術費は25万ドル、リストに載せるだけでも30%の7万5千ドルを現金で前払いで支払う必要がある。 ジョンは25万ドルという高額な医療費を工面するため、勤務先の会社、保険会社、役所などに掛け合うが、保険の上限額は変わらず、生活保護も断られてしまう。家財道具を売り、寄付を募るが、高額な医療費には全く足りない。そして、ジョンはマイクの退院勧告を知らされる。医療費は一生かけても支払う、とジョンは主治医に懇願するのだが聞き入れられない。ついにジョンは、息子の命を救うため救急病棟に人質を取って立て篭る。
 要求は、レシピエント・リストにマイケルの名前を載せること、つまり息子の命を救うことだった。その模様はテレビ中継され、病院の周囲には大勢の市民が集まる。いつのまにか市民たちはジョンQとマイクを声援するようになる。交渉係の刑事が狙撃を中止するように動く中でも、刻々と狙撃の準備がすすめられていく。
 マイクの容態も悪化していく。時間はもうない。ジョンは最後の決断をし、自分の心臓を摘出し息子に与えるように医師に頼む。そして・・・

 

 ジョンがマイクに語りかけるラストに近いシーンでは、ぐっと込み上げるものがあった。このとき僕は完全に父親になっていた。僕には中学生と小学生の子供がいる。だからこそ、たとえ罪を犯しても息子の命を救いたい、しかも自分の心臓を摘出してまでも息子を助けたい、という父親として彼の取った行動が心情的によく理解できる。また作品のように彼の周りにいた人たちの、親が子を想う気持ちに圧倒されてしまう、という反応もだ。


 この作品を観ていて思い出したことがある。


 日本では親から子への生体肝移植が他国と比較すると多いように思われる。これは、日本人の多くの親が子に対していだく盲目的・犠牲的な愛情表現の具現化でもある。また法令化されたとはいえ、脳死移植が現段階ではほとんど可能性がないないため、この方法を取らざるを得ないことも、ひとつの理由であるだろう。
 一時期、子供に生体肝移植をした父親の例が数件続いた。報道ではいかにも美談として伝えられていたのだが、同様なケースで我が子に移植をしない親が世間からは冷たい目で見られるという報道もあった。このような問題に関しては、是非論はなじまない。つまり二者択一的な答はない。それぞれの家族がそれぞれの家族環境や様々な理由で、医療従事者から移植に関する正しい知識を得、かつ理解をし自ら判断を下す。それ以上の問題ではない、と僕は思っている。
 上述のような場合に限定し、なおかつ正当な医療行為であっても、生体から臓器を摘出することを美談とする人もいれば、非医学的、非人間的行為と感じる人たちもいる。そこにはそれぞれの人生観や価値観、宗教観や死生観、あるいは道徳観など、数え上げればきりがないほどのとても個人的な理由があるはずだ。それを第三者が騒ぎ立てる正当性と必要性は微塵もない。
 この話題をもう少し続ける。どの立場のレシピエントがいるかにより、たとえ同一人物のドナーであっても「提供する」「しない」の答は変わってくるだろう。例えば、次のような場合を想定するとどうだろう。おそらく「ドナーになる」「ならない」に絶対的な統一性はないだろう。


 あなたは、誰になら生体肝移植をすることに承諾するだろうか。


・生体肝移植を必要とする「我が子」がレシピエントの場合。
・生体肝移植を必要とする「親・兄弟姉妹を含む親族」がレシピエントの場合。
・生体肝移植を必要とする「友人」がレシピエントの場合。
・生体肝移植を必要とする「他人」がレシピエントの場合。


 言うまでもないが、まずはドナーとレシピエントとの人間的な関わり度合いにより「提供する」「しない」が決まるのだろう。我が子であっても、濃密な親子関係なのか、希薄な関係なのか。または家族に幼児が数人いる場合や、配偶者が病弱である場合、あるいはドナーの健康状態や生活レベル、そして様々なタイミングなどによっても、「提供する」「しない」は当然違ってくる。
 繰り返すが人生観や価値観、宗教観や死生観、あるいは道徳観なども含めて、家族の状況や環境は個々人により千差万別であるがゆえ、「提供しない」から「非人間的・非人道的」などと、その人の人格までをも否定するような報道や発言をしてはならない。
 結論を言えば、あくまでも個々人が周りの目を気にすることなく、自ら判断した答が尊重されるような社会風土や環境の構築が大切だということだ。


 この作品では、もし彼がその結末を実行していれば、脳死状態からの心臓移植となる。脳死移植、特にドナー側からの僕の見解を言えば、その死をどの立場で語るかにより生体肝移植と同様、答は変わってくると考える。つまり、


・一人称のドナー(自分自身の死:人の役に立てるのなら、臓器提供を厭わない。または、自分の体だからこそ五体満足でいさせて欲しい、のように語れる個人死)


・二人称のドナー(親・子供及び濃密な兄弟姉妹などとても近しい人の死:医学的にも見解が分かれる脳死判定基準により、心臓を含む臓器摘出という明らかな絶対的な死を招く積極的行為を近親者に行うことにためらう場合、または、故人の明確な臓器提供意思を尊重する場合、のように脳死患者との関係がその判断に影響を及ぼす死)


・三人称のドナー(見ず知らずの第三者がドナーになるため、世のため人のためなどと大局的、客観的なスタンスで冷静に語ることのできる死)


のそれぞれの立場により、同一人物の答でありながらも統一性を見出すことは少ないと考える。人は様々なことを考えた上で結論を下す。臓器提供のようなテーマは数学のように答がひとつしかないとは限らない。立場により見解が異なったとしてもまったく不思議なことではない。
 心臓移植手術でしか助からない、レシピエントである我が子を抱えている親の移植希望の確率が相当高いであろうことは察しがつく。だが、おそらくいくつもの葛藤が同時に生じているのではないだろうか。
 たとえば、移植を望むこと、それは同時に他人の死を待ち望むことにもつながってくる。それでいいのだろうか。移植手術には高額な金額がかかるが、支払能力の有無により人の生死が左右される。支払能力のある自分だけが恩恵を受けていいのか。医学的に脳死基準が確定されてはいるが、実際の現場ではどれほど厳密にその確認手続きが遵守されているのか、そのドナーに回復の見込みは100パーセントないのか、つまり本当に医学上で死と定義できるのか、という不安もある。日本の現行臓器移植法では、脳死での15歳未満の臓器提供は認められない。それは15歳未満の小児は臓器提供の意思を示すことができないためと考えられいるので、小児の心臓移植は事実上道が閉ざされている。外国でしか心臓移植に頼れないこのような状況を踏まえながらも現状について考えれば、当事国でレシピエント・リスト待ちをしている人のところへ他の国の人が支払能力という正当と思われる経済原理の名のもとにリストに名を連ねてしまっていいのか。つまり、当事国患者の様々な不満や批判をどう考えればいいのか、などいくつもの問題点が頭をよぎるに違いない。
 このようにいくつもの現実を加味しながら「レシピエントになる」「ならない」の難しく苦しい判断を親は迫られるのだろう。ここでも言えることだが、それを決めるのは、あくまでも本人とその家族である。個人の判断に対して必要以上に第三者が騒ぎ立てる正当性はまったくない。

 

 この作品にあるように、アメリカで医療費がべらぼうに高いのはなぜだろうか。じっくりと調べてみたうえで次回に他の作品の寸評と兼ねて書かせていただくことにする。