2006年6月11日

 

 「渋滞」という日本映画を観た。主演は萩原健一と黒木瞳。1991年の作品だ。
 ストーリーは、金銭的余裕がないため5年間故郷に帰っていなかった妻と二人の子供がいるサラリーマンが、12月30日午前6時15分に渋滞を承知で浦安から四国に向かう。だが、やはり渋滞に巻き込まれその日は野宿。翌日は事故での大渋滞。次の日も、またまたトラブル発生と、なかなか故郷にたどり着けないのだが、やっとの思いで故郷にたどり着き、島の人々が歓迎してくれる。そして、一番喜んで迎えてくれたのは……
 いとも単純なお話だったのだが、ラストにはこれぞ映画というシーンが用意されていた。そもそもこの映画を観る気になったのは、渋滞をモチーフにした家族の絆という表現の仕方に興味が沸いたことと、我が家でも渋滞の経験があり、そこには家族だけのドラマがあったことを思い出したからだった。
 かつて我が家でも渋滞に巻きこまれいい加減、嫌になった経験がある。伊豆に行ったときだった。夏だったので、もちろん大渋滞を覚悟の上で車に乗り込んだのだが、実際に長時間も渋滞に巻き込まれると、進まないからドライバーである僕はいらいらするし、同乗車の妻や子供も疲れてくる。そんな状況の中で、ふとしたことから口論が始まる。そして口論にも疲れ、みんな無口になった頃、やっと目的地に到着する。しかし着いてしまえばこっちのもの。先ほどの口論も無口もどこかに吹っ飛び、おいしい食事とお酒に舌鼓し、楽しく渋滞を振り返る余裕シャクシャク。きっとこのようなパターンを経験している人は多いのではないだろうか。一度このような渋滞にあったので、それ以降は、相当の覚悟をして臨まないといけないことを身をもって学んだため、今では無口になることも口論になることもない。とはいうものの、やはり渋滞には巻き込まれず、早く目的地に着いてゆっくりとくつろぎたいことに変わりはない。
 

 この作品には○をつけた。二つの理由があった。

 ひとつ目は、主演者の演技は信用していたので、設定が渋滞で家族の絆ならば、きっと満足させてくれる演技がそこに展開されると思ったこと。そして、結果は思った通り。監督が伝えたいことを二人の演技者がきちっと演じていた。それは脚本のできであり、台詞でもあったのだろう。ふたつ目は、ねたばらしになるので詳細は言えないが、親と子の機微が根底に描かれている作品だったということ。どのような時代背景であれ、製作国がどこであっても、この機微を主軸に描いている作品がある限り、僕はそのような作品を好んで観続けるだろう。

 

 渋滞をテーマにした作品で思い出すのは、1993年、アメリカで制作されたマイケル・ダグラス主演の「フォーリング・ダウン」だ。

 この作品は日本の「渋滞」作品とはまったく異なる。日本の作品を静とするならば、「フォーリング・ダウン」は過激すぎる動の作品だった。
 ストーリーは、ひとりの男が、ロサンゼルスの高速道路の渋滞に嫌気がさし、そのまま車を乗り捨ててしまう。そして、その怒りが収まらない感情を持ったまま、近くの商店に行く。ところが、電話をかける小銭がなく両替を頼むが店員に拒否される。もうこの男の怒りは止まらなかった。渋滞をきっかけに抑圧されていた社会への憎悪がいっきに噴出し最悪の形として表現されるという作品だった。
 しかし、同じ渋滞でも、捉えるテーマがずいぶんと違うものだ。可能ならば、同じ渋滞を題材にして、日本の監督には動を、アメリカの監督には静を描いてもらったら面白いような気がする。
 ちなみに、日本での過去最高の渋滞は135Km。1990年8月の中国自動車道・山崎IC(兵庫県山崎町) ~名神高速・瀬田西IC(滋賀県大津市)までの渋滞だった。冗談じゃないけど、やってられませんね。