2012年8月15日

 

 

「ロードムービー」「差別」。2つのキーワードでくくれる作品、

 

ふたたび swing me again

2010/日本 

監督:塩屋俊 

主演:財津一郎 /鈴木亮平

 

マイネーム・イズ・ハーン」

<MY NAME IS KHAN>

2010/インド

監督:カラン・ジョーハル

主演:シャー・ルク・カーン/カジョー

 

を続けて観たが、どちらも心に残る作品となった。

 

「ふたたび swing me again」概要
  50年以上も前の学生時代、主人公の貴島健三郎はジャズバンドを組んでいた。しかし、ステージデビューを目前にハンセン病のため療養施設に隔離されてしまう。半世紀もの月日が流れ、健三郎は息子の元を訪れる決心をする。しかし、近所の目を気にする息子夫婦や孫娘の婚約破綻などもあり、健三郎は突然家出してしまう。その健三郎を探し迎えに行ったのは孫でありトランペット奏者でもある大学生、大翔だった。ここから、健三郎の真の目的であったかつてのバンド仲間との再会に向けた祖父と孫とのロードムービーが始まる。

 

「マイネーム・イズ・ハーン」概要
  純粋な心の持ち主であるアメリカ在住のイスラム教徒ハーンはアスペルガー症候群だ。ふとしたきっかけで、12~13歳の子供を持つバツイチでヒンドゥー教徒のマンディラと出会い結婚する。しかし、9.11事件を機に大きな不幸が二人を襲う。マンディラはハーンとの結婚を後悔しハーンへの別れを告げる。

  ハーンにはその理由がよくわからなかったが、マンディラのある一言を実行するために家を出る。イスラム教徒というだけで差別され弾圧される厳しい状況下ではあったが、マンディラとの再開に向けたハーンのロードムービーが始まる。

 

 現在、医学の進歩によりハンセン病の治療法は確立されている。従って、重篤な後遺症を残すことも自らが感染源になることもない。2007年の統計では世界のハンセン病新規患者数は年間約25万人だが、日本人新規患者数は年間0から1人と稀になっている。
 医学的には恐れる必要のない病になってはいるのだが、作品では大翔の彼女が両親から大翔との付き合いを禁止されるというくだりがある。医学的知識が不十分なために起きた悲劇と言える。この作品は現代を舞台にしているにもかかわらず、かつてのエイズへの偏見と同質的問題が今もあることを表している。

 

 ハンセン病を題材にした作品のひとつに『砂の器』(松本清張原作)がある。


 この作品についての背景や問題点は、公益財団法人日本障害者リハビリテーション協会2004年9月号「ノーマライゼーション 障害者の福祉」―文学にみる障害者像―松本清張著『砂の器』とハンセン病-で非常にわかりやすく紹介されている。やや長くはなるが一部を紹介する。

『松本清張『砂の器』の問題点
 この作品には「業病」という言葉が頻出する。かつてハンセン病(「癩病(らいびょう)」)は遺伝性のものと考えられ、「業病」や「天刑病」などと呼ばれ、前世の罪の報い、もしくは悪しき血筋による病との迷信があり、それを発病することは少なからぬ罪悪を犯すことと同義とされた。もし一人でも親族に発病者が出ると、その家は共同体の中で一切の関係性を断絶され、時には一家離散に追い込まれたという。そのような患者迫害が最も激しかった時期、それが昭和10年代の無癩県運動期であった。
 本浦父子が放浪し、父千代吉が三木謙一巡査に保護され療養所に収容された昭和13年という時代はちょうどこの無癩県運動期に該当する。無癩県運動とは〈民族浄化〉を旗印に各府県警察の主導で患者狩りが広く展開された時代である。本浦父子もこの無癩県運動の被害者であったと言えよう。ハンセン病は〈一等国日本〉にとっては〈国恥病〉であり、その存在自体が〈国辱〉とされ、誤った伝染力の認識と相俟(あいま)って、国家を挙げて隔離撲滅が奨められた。ハンセン病は「業病」であり同時に凶悪な伝染病であるという、患者にとって極めて不都合な偏見が幾重にも重なり合っていた。そのような境遇に貶(おとし)められたハンセン病患者を父に持つ本浦秀夫は、戦後の混乱に乗じて自身の身元を偽造し、和賀英良に再生することに成功する。苦労して手に入れた現在の地位を守るために、自身の正体を知る三木謙一を殺害したのだ。しかしそのような嘘で作り上げた彼の栄光はもろくも崩れていく。まるで砂で作った器のように。

 

 映画版『砂の器』の問題点
 映画が製作された昭和49年には、すでに他ならぬハンセン病回復者自身によって隔離政策への歴史的再考がなされていた。そのような時代に、無癩県運動によって隔離される本浦父子を感傷的に描くばかりで、ハンセン病=〈社会的負性〉という偏見を相対化する視点がなかったのは残念である。
 さて、映画は当然のことながら映像を表現の手段とする。そのため不可避的にハンセン病患者を映像化する必要が生じる。『砂の器』はハンセン病患者を、シミのある土気色のメイク、ボロボロの衣裳、ずらしてはめられた軍手(歪んだ手)という形で表現したが、実はこれらの映像表現は、『小島の春』(昭和15年)、『ここに泉あり』(昭和30年)、『愛する』(平成9年)にも共通するハンセン病患者を映像化するための紋切型なのである。そしてこのように表現された患者たちはいずれも重く沈痛な表情をしている。いわば悲しげな表情もメイクの一部となっているのだ。もちろんこのような者もかつてはいただろう。しかし映像化される患者がことごとく同様の紋切型で描かれ、いつも泣いているものだと思われては、描かれる側としてはたまったものではないだろう。』

 

「ふたたび swing me again」では、ハンセン病に対する医療・医学知識未成熟時代に起きた貴島健三郎の悲しみと不幸はもちろん描かれてはいる。しかし、この作品が「砂の器」と大きく異なる点は、既述の「ハンセン病患者を映像化するための紋切型」の描写や「業病」を誤想させるような描写が皆無なことだ。病に対する認識は間違いなく高まっていると感じた。

「ふたたび swing me again」は、隔離という不幸を経験しながらも、かつてのバンド仲間たちとの再会・ライブを夢見、実現させた、不屈の魂を持った熱い男の物語だった。

 

「マイネーム・イズ・ハーン」については、次回触れることにする。