2004年9月12日

 観始めはつまらない、と感じた作品が、20分後には、"こ、これは……"、と感じた作品は、「幻の市街戦」以来かもしれない。ちなみに、僕の"こ、これは……"、の感覚は、つきなみではない、という最上級の表現になる。

 最近観た「50 First Dates」も観始めは今ひとつだったのが、だんだんと引き込まれていく作品のひとつではある。が、"こ、これは……"、の表現を使うほどのものではなかった。

 では、僕が、"こ、これは……"を使ってしまった今回の作品とは?

 

ドッグビル」<DOGVILLE>

2003/デンマーク
監督:ラース・フォン・トリアー
主演:ニコール・キッドマン/ポール・ベタニー/クロエ・セヴィニー

 

 設定自体がスタジオの中の仮設街。しかもそのスタジオセットに仮設されている家には壁もドアもない。家と分かるのは床に白い線が引いてあるから。実際観始めて、とても違和感を覚えた。"これは映画だ。スクリーンを通して観ている映画だ"。もし舞台劇を観ていたら、このような感覚には決して陥らなかったに違いない。


 作品内容は個々の登場人物にスポットをあてながら、全体として人間そのものが持つ邪悪性をあぶりだすという、実に重いものだった。観終わった後感じたことは、安部公房の「砂の女」や、カフカの「審判」「変身」作品のモチーフである、不条理の世界だった。

 そう感じたのは、僕が主人公のニコール・キッドマンの立場で作品を観ていたからだろう。彼女がこの街に来たことや、最後に街を出て行く理由に対しては確かな彼女なりの理屈もあり、不条理でもなんでもない。僕が不条理と感じたのは、彼女が街の人々の行為を仕方ないことと捕らえ、次第に屈辱的な立場へと追いやられていくことに対し、自分なりに正当な理由をつけ、ついには受けいれてしまうからだった。また、大半の時間がそのような場面に費やされていたことも大きいだろう。


 人間の邪悪性についての洞察も鋭く深い。特に個を離れて集団となった時の良心の喪失描写。いや、喪失というよりは、良心からの逃避、の表現の方が適確かもしれない。人間は集団の中へ意図的に個を埋没させる行為が、邪悪な行いに対する個々人の贖罪感を軽減させることを経験的に知っている。集団というオブラートに包まれることで、個の罪悪感は限りなく緩和される。まさに確信的な良心の呵責からの現実逃避と言える。


 人間の本性、という圧巻の描写は、やはりラストだろう。

 人間的にはいわゆる普通の人、どちらかと言えば、善人と思われていた主人公の心の中には、自分で押さえ切れないほどの理性を超越した激しい憎悪が渦巻いていたに違いない。しかし、それは逆の見方をすれば、非常に人間らしい、とも思える。その人間らしい人間が、衝動的にラストのあの行為を行なうのではなく、理性を持って行なうあの行為が、まさに人間の邪悪性を現わしている。主人公がとるラストの行為は、どんな理由にせよ許容されるものではないのだが、もっとも恐ろしいことは、虐げられてきた自分が行なう行為ならば、その行為は邪悪な行為ではなく正しいことであると歪曲し正当化してしまうところにある。つまり行為そのものに対する善悪の判断はそこにはなく、どんなに行為そのものが常軌を逸脱した行為であっても、その行為にいたる動機や理由が自分なりに正当化できれば、行為そのものをも正当化してしまうと言う、人間の詭弁性向からくる確信的邪悪性向こそが、恐ろしい。
 

 異様なセットでの撮影は、起こる結末への殺伐感、そして人間のみにスポットをあてるがための街の無機質感は、必然の選択だったのだろうと解釈する。また、本来家にあるべき壁には色も形もないので、初めはその家の住人の個性や正確も想像がつかない。しかし、ストーリーが進行するにつれ、僕には無色透明の壁や家に、住人の性格を基にした想像の色や形の家や壁が浮かんでくる。無機質な設定だからこその成せる技、とも解釈した。さらにもう片方では、そもそも人間は詭弁性を兼ね備えた存在なので、白を黒にもすることができる欺瞞性を、無色透明の街を通すことで、善と悪の色判断を個々人の観客の解釈に委ねたのだろう、という解釈も可能なような気がした。
 

 いずれにしても、いろいろと考えさせられる奥深い作品だった。だからこそ映画は人生の師でもあると言える。